「死ぬかと思った…」
疲労困憊といった様子で朔(はじめ)は冷たいコンクリートの地面にへたり込んだ。
まさか空を飛ぶことになるとは…さすがに予想していなかった。
「朔、大丈夫?」
久苑(くおん)が手を差し出して、朔を引っ張り、立ちあがらせてくれた。
「これくらいのことでへたり込むな。行くぞ」
莉(り)玖(く)の力で道路に陥没をあけて落ちた先は地下水道だった。流れる汚水のにおいがひどく鼻についた。
落ちてきた穴からまだパラパラとコンクリートの粉が降っていた。その穴はもう、ずいぶん上の方にあっって、穴は夜の暗い空と、一区のビル街から洩れる光をのぞかせていた。
莉玖は地下道を突き進もうとした。地下には作業する作業員たちのための薄暗い照明がついている。
「ち、ちょっと待って!それよりも、説明して…その能力(ちから)」
朔は莉玖を睨みつけた。
莉玖は今、緋鳶の力を解放していたので髪は銀に、左眼は紅く染まった異様な風体で、その雰囲気も冷たく差すようである。
「……いったんここを離れる。それからだ」
莉玖は有無を言わさず先へ歩いて行ってしまった。
朔が歯噛みしていると、久苑がぽんと肩を叩いた。
「ここは寒いし、白鷺の追手が来るといけないから…。落ち着けるところに行ってからでも遅くはないよ」
久苑の言葉にしぶしぶではあるが、朔は莉玖のあとを追って歩き出した。
莉玖は迷うこともなく地下道をどんどん進んでいった。そして鉄の梯子(はしご)を上り、マンホールを押し上げると、古びた民家の前に出た。
莉玖は民家の錆びた門を強引にこじ開け、顔をしかめた。
「さすがに、十年も放置されると荒れるな…」
その民家のある場所は、理路整然とした住宅区画から少し離れた下町の風を残したところだったが、その中でもここは、草木が荒れ放題で、建物も煤での汚れがひどかった。
「ここは…」
朔があたりをきょろきょろ見回した。なぜこんなところを莉玖が知っているのか甚だ不思議でしかたなかった。
「昔取った杵柄(きねづか)ってやつだよ」
久苑はニコッと笑って、莉玖がこじ開けた門を朔の手をひいて入っていった。
「説明!」
民家の中に入り居間に三人が落ち着くと、朔は莉玖を再び睨みつけた。
このころにはもう莉玖はいつもの姿に戻っていた。
一つ息をつくと、莉玖は仕方なさそうに口を開いた。
「俺は鬼を宿している」
「それはさっきも……」
まくしたてようとした朔は思わず口をつぐみ、目を見張った。
莉玖の体から分離するように横に長い銀髪の鬼が現れた。黒い羽織はかまに尖った耳と二本の白い角を持つその存在は、見た目は精悍な三十代の男性なのだが、明らかに人ではなかった。
その姿はよく見ると向こうが透けて見える。実体ではないようだと朔は思った。
「わしの名は緋鳶(ひえん)…こやつの憑き鬼だ。『鬼を狩る鬼』とでもいっておこうか」
緋鳶は莉玖と同じく無表情で朔を見据えて、重々しく答えた。
朔はその灰色の双眸をみて鼓動がはねた。自分の中の何かが、ちりちりとくすぶっているようで、それでいてすっと心臓が冷え込んでいくような感覚がした。
「暮葉の一族は《陰の気を司りし者》だっていったでしょ。莉玖はこの世の陰の気を調整する『渡吏』という冥府の役人なんだ」
久苑があたりの埃を落としながら優しく笑って言った。
「渡吏はこの世で陰の気を溜め人から鬼へと堕ちた者や、冥界からあぶれ出た悪鬼を始末するのが仕事だ」
莉玖は腕組みをして壁にもたれている。
「さすがに人では悪鬼を始末するには力が足りん。じゃから鬼と契約してその力を借りる」
緋鳶は無愛想に横を向いている。
「俺は緋鳶の力を言霊で引き出すと、半鬼化(はんきか)する。それがあの姿だ」
「じゃあ、刀の炎も?」
朔は終始眉間にしわを寄せている。
「いや…あれは忠光の力だ」
莉玖は忠光を掲げた。
黒い鉄ごしらえの鞘に入った刀も、今は沈黙している。
「こいつは妖刀…人の気を喰らって、それを冥界の炎に変える能力を持つ。もっとも普段はただの刀だがな」
莉玖はまた元のように腕組みをしなおして、目を伏せた。
「他に質問は?」
「この民家は?」
朔はぐるりと家を見まわした。
電気がつかないので、部屋の中は外の街路灯の差し込む光と、久苑が探してきた蝋燭の炎で照らされた部屋は、埃と蜘蛛の巣で汚れていた。
しかし、この晩秋に野宿よりましだった。
その汚れた部屋をかいがいしく久苑が掃除していた。さすがに埃の積もった床で寝るのは避けたいようだ。
普通の民家のようだったが、どうにも朔は部屋から生活感をあまり感じることができなかった。
「ここは、暮葉の一族が仕事をする時に使っていた隠れ家の一つだ」
「よく、十年も取り壊されなかったものね」
「天宮の名義だからな」
「…!」
しれっと言ってのけた莉玖を朔は驚いた目で見た。
莉玖は煙草を取り出して、火をつけた。
「暮葉は天宮の影の仕事を担ってきた家でな…その昔から、天宮の敵を排除することを仕事としていた。そのために、ここは天宮から支給されてたんだよ」
顔が蒼くなった朔を尻目に莉玖は煙草をふかす。
それに、渡吏の仕事をするために一区のそこかしこにこういう隠れ家を所有し、裏道から地下道まですべて網羅していた。
莉玖自身が宗家の跡取りとして十一歳の時にはもう天宮の仕事もしていたので、よく知っていた。
これが昔取った杵柄…
地下で迷わなかったのにはそういう理由があったのだ。
久苑がどこからともなく見つけてきた毛布をかぶって、朔は唯一のソファに寝ていた。
久苑が気を利かしてくれたのだ。自分たちは慣れているからと言って、ぶつくさ文句を言う莉玖を連れて隣の部屋へと行ってしまった。
だが、朔は眠れなかった。いろいろなことがありすぎて…春香たちは無事だろうか…一応久苑に不可視符をもらっていたようだが…そして、姉の居る一区に今自分自身もいるということが、彼女の眠りを妨げていた。
明日は白鷺の研究所…つまり本社に乗り込む。落ち着いて眠れるほど、朔はずぶとい神経をしていなかった。
おもむろに起き上って、息をついた。
すると、隣の部屋から話し声が聞こえた。莉玖達の声だ。
「やっぱり、朔は何も知らされてなかったんだね」
「天宮にとって十年前のことは消し去りたい過去でしかなかっただろうな」
朔は天宮という言葉につられて、壁の方により聞き耳を立てた。
「世話役たちはもともと裏の仕事をしてきた暮葉(おれら)を嫌っていた」
「旺も、あんなことを朔に伝える気にはならなかっただろうね」
朔はただ息を殺して聞いていた。
莉玖は一つ息をついてその言葉を発した。
「…古くからの同胞を裏切って、自分たちは白鷺の手を取った……そんなこと次代の連中に伝える馬鹿はいないだろう」
朔は息をのんだ。聞くべきではなかったとすぐに後悔した。
それ以上は何も聞く気にならなったので、すぐにもう一度ソファに寝転び、毛布をかぶって小さくなった。
どうして!朔は叫びたい気持ちを必死で抑え、ぐっと唇をかんだ。胸の奥では激しい疑念と悔しさがこみ上げて来て何とも言えなかった。
誇り高い神官の一族であるはずなのに…同胞ともいえる暮葉と水知を切り捨てたなんて…白鷺と…でも今、白鷺は敵……それに…彼らを切り捨てといて、今度は助けを求めた……なんて恥知らず!
朔はぐぐっと体を縮こまらせて、目を強く閉じた。そうしなければ涙がとめどなく出てきそうだった。
早く寝なければならなかった。明日、白鷺の本社に行くのだ。そう、思うのに…朔は眠れる気がしなかった。
隣の部屋の二人も眠れずにいた。
明日起こるであろうことを思うと眠る気にならない…しかし、明日は朝から行動しなければならない…なぜなら……
「…日が…落ちる前に片を付けるぞ」
莉玖は床に毛布一枚で寝転がって険しい目で天井を見つめた。
白鷺の計画がどういうものなのか、莉玖達には見えてきていた。
「わかってるよ。月が昇ったら…厳しいよね」
渋い顔をして久苑も天井を仰いだ。
―月―それは陰の気を象徴する存在…
◆ ◆ ◆
男は一人、暗いオフィスの自分の椅子に深く腰をおろして目をつぶっていた。
彼の背中には一面ガラス張りの窓があり、そこには一区のそうそうたるビル群による美しい夜景が広がっていた。
この場所に座って彼はすべてのことを意のままに動かしてきた。政治も経済も…
そして今、彼の最後の野望がもうすぐ実るところまできていた。
……もうすぐだ……
明日、月が満ち天高く昇ったその時すべてが終わる。
長かった…知るまでに三年。計画を開始して十二年になる。
楔(くさび)と渾(こん)…邪魔ものにはしっかりと相手を用意してある。手駒はそろった。
男は口端を吊り上げ目を開いた。
立ち上がって、窓に手をついた。そして、自分の支配する街を見下ろした。
もうすぐだ…もうすぐなんだ……紗羅(さら)……
◆ ◆ ◆
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