第九章 追憶
 遠のく意識の中…こうなってしまったのはなぜなのか走馬灯のようにあの時のことを思い出す。
その、全ての始まりは一体なんだったのだろう。

   たしか…あの日はまだ、俺は莉玖の目をちゃんと見れていた。

   十年前の八月。暑い夏の日。
 暮葉宗家は一区の中心街から離れた山の方にあった。表向きには呉山寺という、禅寺であった。この街中に残された唯一といっていい森林、呉山の管理を任されて自由に使えた。
寺の仕事の傍ら道場を開き、多くの武人を輩出してきた。
本堂の奥に立つ道場では、その日も修練の音が聞こえていた。
 莉玖は防具も付けずに、木刀を持って、蒼真と対峙していた。間合いを測って、先に動いたのは莉玖だった。
 蒼真の懐に一気に入り込むと下から跳ね上がるように木刀を振るった。
 しかし、蒼真は冷静に攻撃をよけると、そのまま体勢を低くとって柄の方で莉玖の鳩尾を突いた。
「うぐっ…」
 莉玖は体をくの字に曲げたが、木刀を握る手にはまだ力がこもっていた。その様子を見て、すかさず蒼真は莉玖の胴着の襟をつかんで投げ捨てた。
「うわっ!痛ぅ…」
 仰向けに叩きつけられて呻いている莉玖の喉元に蒼真は木刀の切っ先をつけた。
「俺の勝ちだな」
 にたっと笑うと、木刀を引いて納めた。
「くそっ!なんでだ!」
莉玖は床に寝転がったまま悪態をついた。
「剣に感情が出すぎだ。殺気も苛立ちも、もっと隠すことだな。どこを狙っているのか分かりやすいんだよ」
 蒼真は莉玖の敗因を丁寧に分析する。
 いつも旺のそばにいる蒼真も、月に一度の旺の禊(みそぎ)の日にはその任を解かれるため、こうして、莉玖と決闘と称した修練をしていた。
 ぶすくれた顔で莉玖は起き上がり胡坐を組んで何やら対策を練って考え込んでいた。
「うわぁ!」
不意に莉玖の背中に誰かが飛びついて来た。
「今日はお兄ちゃんが勝った?」
 ひょっこり顔を莉玖の肩から出したのは柚季だった。
 莉玖と同じ黒髪を高い位置でポニーテールにし、大きい黒い瞳が可愛らしい印象を与える。楽しそうに莉玖の首に手をまわして、六歳の妹は、まだまだ幼い笑みを浮かべていた。
「残念…今日も俺の勝ちだ」
「えぇ〜!今日は勝てるって言ってたのに!」
 蒼真の言葉に驚いて、莉玖を押しつぶすように柚季は身を乗り出した。首に回している手にも力が入ったのか、莉玖は苦しそうだ。
「じゃあ、ゆずが蒼くんをたおす!」
 柚季がいたって真剣な目でそう言ってきたので、思わず蒼真は大笑いしてしまった。莉玖も、がっくりと肩を落とす。
「ゆっ、柚…季が、相手だと、俺も形無しだな…くっ、ははは…」
 笑い転げる蒼真を見て、柚季はふくれっ面をする。この愛くるしい親友の妹を兄弟のいない蒼真は実の妹のように可愛がっていた。
「柚季…重い。お前、なにしに来たんだ?」
 莉玖は柚季をどかすと、ため息交じりに聞いた。
「そうだった…お客様!」
 莉玖が道場の入口に目をやると、久苑がいた。
「なんとも賑やかだね」
 久苑は口元を押さえて楽しそうに笑っている。
「どうしてみんな笑うの?」
怒ったように柚季は莉玖の顔を見た。
「お前じゃ、蒼真に勝てないからだよ」
「わからないでしょ!ゆずは、お兄ちゃんを守るってちかったの!」
「あのなぁ…」
 呆れ声をあげる莉玖の横から久苑が口をはさんだ。
「それって『守りたいもの』の話?」
「そう!暮葉の刀をにぎるためのちかい」
柚季は嬉しそうに笑った。
暮葉の人間は人を殺すことを長く生業としてきた。その中で必ず守らなければならない誓いを立てていた。それは刀を振るうときは必ず何かを守るためでなくてはならないというものだった。
以前、莉玖が旺の離れでその話をしたことがあった。みんな何か守りたいものはあるか、と。
蒼真もこの話は印象深かったので良く覚えていた。
蒼真は迷わず旺と答えた。旺は朔だと朗らかに答えた。久苑は迷っていたが、兄さんと照れくさそうに言った。そして、莉玖は……
当時の言葉を思い出して、蒼真は眩しそうに莉玖を見た。きっとあいつは、今でもそのことを誓いに刀を握っているんだろうな。

 憧れが…嫉妬に染まったのはあの言葉を聞いたからだろう…

   翌日、学校帰りの蒼真は制服姿で天宮家の門の前に立って、息をひとつ飲んだ。
 禊の次の日はいつも天宮に入るのを思わずためらってしまう。それほどまでに静謐な空気を醸し出している。
 ため息交じりに門をくぐって彼の主のいる離れの方に向かった。そこがより清浄なる地になっているのだと思うだけで少し怖くなる。
彼の主がまた一層触れられぬ存在になっていると感じてしまうからだ。
「蒼真です。旺様、今より護衛に入ります」
 常套文句を述べて、蒼真は離れの扉を開けて中に上がった。
 いつもなら、蒼真が来るとすぐに笑顔を向けて挨拶をしてくるのに、その日は違った。
 いやな胸騒ぎを覚えて、蒼真は旺の姿を探した。
旺は縁側に腰をおろして、庭を眺めていた。その方向にはいつも莉玖達が忍び込んでくる抜け穴があった。
「旺様?」
 蒼真の呼びかけに、びくりと肩を震わせて、旺は振り返った。
「蒼真。ごめんなさい、気がつかなくて…ご苦労さま」
 柔らかに微笑んで、蒼真の目を見た。
 旺は七月末に誕生日を迎えて十二歳になったばかりだ。なのに、その瞳はどこか大人びて、肩からこぼれる長くまっすぐな黒髪に、白い肌が一層引き立てられるようだ。
蒼真は旺の笑みに、違和感を覚えた。いつもの屈託のない笑みではなく、心配をかけまいとするときの笑みに似ていたからだ。
聞くのが怖かった。旺の見ていた先が何を意味しているのか予想がつく。なのに、蒼真は聞かずにはいられなかった。
「何かあったんですか?」
旺は黒曜のような黒く大きな瞳をさらに見開いて、蒼真をじっと見たあと、視線を床に落として黙り込んだ。
泣きそうな、悔しそうな顔をしてぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、蒼真…巫女は恋をしてはいけないんですって」
 蒼真の鼓動が大きく跳ねあがった。聞いてからやはり後悔した。今彼女が思っているのは…そう考えるだけで、自分の中の黒い感情が心を侵食していく。
「巫女はその生涯、純潔でなければならない。私、その意味がよくわかってなかったの」
 ぽつりぽつりと、旺は言葉を紡ぐ。
「禊のあと、お局(つぼね)たちに言われたの。十二になったのだから自覚を持てと…恋をしては……人を愛してはいけないって」
「それは…」
 蒼真は何と言っていいかわからなかった。旺の苦しそうな顔を見たくはなかったが、彼自身の感情も抑えなくてはならなかった。
 彼女への自分の気持ちを、そして、彼女に想われるあいつへの嫉妬を、見せることはできない。
「彼は私を仕えるべき主としてしか見ていない。でも、それでも…」
蒼真はこの後に発せられる言葉を聞きたくはなかった。
だが、旺は抑えきれずに自分の心を吐露した。
「好きなの……莉玖が……」
 蒼真は思わず後ずさり、壁に背をつけた。握りしめたこぶしから血の気が引いていく。こみあげてくる憎悪を必死に抑えた。
「どうして…?どうして私が巫女なの……」
 絞り出すように言われたその一言が、蒼真の胸に突き刺さった。
痛いほど、蒼真にわかる気持であった。
どれほど想っても届かない思い…
 どうして俺は守護なのだろう…。付き人である自分は、年下の彼女の事を呼び捨てにすることもできない。
声を殺して泣くその背中を、その痛々しい小さな体を、抱きしめることはできない。彼女が求めているのは、蒼真ではないのだから。
それでも、彼自身にできることは何でもしたかった。だから、ただ黙って側にいる。
蒼真は悔しさから歯をくいしばってうつむき、思った。
自分達を縛るものすべて……消すことができたなら……

物事が動く時、それはまるで連鎖するようだと思う…

それから二日後の事だ。
蒼真は父親に呼ばれて和室の客間に入った。
そこにいたのは彼の父親と、天宮の意見番と呼ばれる先代当主であった老人、たしか久苑の叔父の水知隆弘、そして初めて見る四十代の狡猾そうな顔をした男だった。
「蒼真、座りなさい」
 父親に促され一番下の位置に腰を下ろした。
「君が、仙堂の跡継ぎか…」
 上座に座った見知らぬ男は、蒼真の顔を見て呟いた。
「君は、天宮を守りたいか?」
「はい」
「…もし天宮を守るために君の大切なものを捨てなければならないとするなら……君はどうする?」
「たとえそれが己の命であっても、天宮のためなら捨てる覚悟があります」
 蒼真は即答した。
 男はこの言葉を聞いて、喉の奥で笑ったようだった。
「さすがですね。では、満場一致ということで、明後日に決行でいいでしょうか?」
男が周りを見回すと皆一様に首を縦に振った。
「説得に応じない奴らが悪い……」
 隆弘がぼやいた。噂では、水知家はこの分家の隆弘の一派と、当主である静馬の一派の仲が相当悪いらしい。
どういうことなのか蒼真にはまだわからなかった。
 怪訝そうに眉間にしわを集めた蒼真を見て、男は口端を釣り上げて、事のあらましを説明した。
 蒼真の顔からどんどん血の気が引いていった。
 男は言った。
「なに、君は暮葉を潰してくれればそれでいいんだよ」
心の奥で、いやだと叫ぶ蒼真がいた。だが、どこかで自分の望みが叶うのではと思う自分もいた。
話が終わって皆それぞれに帰り支度を始めた。呆然としている蒼真の横に男がやってきて耳打ちした。
「望みを叶えたければ、この世のシステムを壊せばいいと思わないかい?」
 まるで心の内を見透かされたように囁かれた甘美な言葉は、蒼真の気持ちを一気に黒く塗りつぶした。
 はっとしたように、男の顔を見た。
「君とは長い付き合いになりそうだ…」
 冷たい笑みを残して、男は帰って行った。

  ◆       ◆       ◆

赤い、赤い…それは血の色
紅い、紅い…それは火の色
銀色の髪がたなびいて
緋色の瞳が涙にぬれている

旺は恐怖に駆られて飛び起きた。
荒い呼吸で、周囲を見回せばまだ夜が明けていない。時計の針は午前三時半過ぎを指していた。
汗をぐっしょりかいた手で胸元を押さえた。とても強い、悲しみと痛みを感じていた。
今の夢は…まさか……
巫女の見る夢には予知夢が含まれることが多い。その者の特性によってその精度は変わる。旺はあまり未来を読むことには長けていなかった。しかし、あれほどまでにはっきりと、そしてリアルに感じる夢を見たことはなかった。
しかも、つい五日前に禊を済ませたところの旺の霊力はとても研ぎ澄まされていた。
彼女は夢で見た瞳に見覚えがあった。いつも、愛おしいと思っている彼の眼だった。
 お願い…ただの夢であって下さい……

その願いが叶うことはなかった。

    ◆       ◆       ◆

   忘れられない…あの夜の出来事は、俺の一生の罪と誓い……

   あの、密会の二日後。奇しくも満月の夜だった。
 男はオフィスの自室で電話が鳴るのを待っていた。もうすぐ午後九時になろうかというころだ。
「そろそろだな」
 そう呟いたとき、電話が鳴り響いた。
「私だ」

 穂積は影牙と白鷺の軍の指揮をとり、今まさに一つの山を取り囲み、もういつでも襲撃できる態勢に入っていた。
 そこに、待っていた仙堂の面々がやってきた。仙堂宗家の人間と顔を合わせるのは初めてだった。
 一人、少年が混じっていた。
 彼が、仙堂蒼真ですか…確かまだ、十六でしたか。
 そんなことを思いながら、穂積はあの方に電話をかけた。最後の命は彼自ら下すことになっていた。
『私だ』
「いつでもいけます」
『そうか…では、これより暮葉宗家掃討作戦を開始しろ!』
 落ち着いた低い声が携帯電話から流れた。
 そして、悲劇の幕が上がった…

 莉玖は家の裏にある森の奥の祠にいた。この頃の莉玖は未熟で、緋鳶の力をすべて出すことができていなかった。そのため、満月の日は祠にある大岩に端座して陰の気を高め、緋鳶と対話をするようにしていた。
 目を閉じ、瞑想していた莉玖は一瞬、風が凪いだのを感じ取った。
 次の瞬間、激しい銃声が聞こえた。
 驚いて大岩から飛び降り森を走りだした。
「家の方からだ!」
『気をつけろ!嫌なにおいがする』
 緋鳶がいつになく切迫した声を発した。
 莉玖も本能的に嫌な予感がした。胸の内がざわつく感じだ。
 森を飛び抜けると同時に持っていた刀の鯉口を切った。
 家の周りを、銃器を持った軍人と思しき男たちが囲んでいた。
 莉玖は抜き打ちに一人斬り捨て、次々に懐へ飛び込み一撃一殺でなし崩していった。
「なんだ!このガキは!」
「そいつは宗家のやつだ殺せ。我々の標的はそいつだ!」
 軍人たちはどっと波になって莉玖の前に立ちはだかった。だが莉玖は止まらなかった。
裏の仕事を始めてもうすぐ二年、渡吏になって四年になろうとする莉玖は、実践にも慣れていた。その動きはただの軍人では到底止められるものではなかった。
 柚季!守るべき妹の名を胸の内で呼び、莉玖は自分の力を最大限引き出して叫んだ。
「どけぇえぇぇ!」

 さすがに、暮葉の宗家もただではやられない。
宗家のある敷地内には二つの分家と、暮葉の内弟子達、そして使用人が住んでいた。この緊急事態に、当主である黎貴はよく応戦し、女・子どもと使用人たちの避難を最優先させていた。
そのため宗家の家の中にはそれほど敵は踏み込めていなかった。
莉玖は裏から中に入って応戦する叔父に会った。
「莉玖!無事だったか」
「それよりも、これは…」
「詳しいことは後だ。お前は奥にいる瑞絵さんの所に行け!」
 瑞絵とは母親の事だった。
 莉玖は走って奥に行くと、母と妹、そして分家の女や使用人たちが一か所に固まって避難用の抜け穴から山の方へ行こうとしていた。
「母さん!柚季!」
「莉玖。無事だったのですね」
「お兄ちゃん!」
 柚季が莉玖に飛びついて来た。泣きたいのを必死に我慢しているようだった。
「母さん、これは一体…?」
「少しもめましてね……神官家と白鷺グループにとって我々は邪魔な存在になっていたのですよ」
母は困ったように言った。
そして、悔しそうな悲しそうな顔をして、莉玖と柚季を見た。
「莉玖…黎貴(れいき)さんから言付けとこれを……」
 母が莉玖に差し出したのは、父がそれまで使っていた当主の証しとも言える宝刀・鬼神切忠光(きしんきりただみつ)だった。
「『お前は水知家へ行き、静馬・久苑と共に0区へ落ちろ』との事です」
 莉玖は忠光を受け取って、一瞬あっけにとられたが、すぐに声を張り上げて抗議した。
「嫌だ!それは俺だけ逃げろってことじゃないか。そんなことはできない!」
 柚季や母を残して逃げることなどできないと思った。
 その時莉玖の後ろから、内弟子の声がかかった。
「早く逃げてください!敵が…うわぁ!」
 莉玖が振り向くと、肩を切り裂かれて床をのたうち回る内弟子の横に、思いがけない人物が立っていた。
「蒼…真……なん、で?」
 莉玖は愕然として、声が上手く出なかった。
「……天宮家の命により、白鷺との合意に反した暮葉家を掃討する。…莉玖、悪いが死んでくれ!」
 蒼真は躊躇せずに莉玖に斬りこんできた。
 莉玖は柚季を引き離し、とっさに忠光を引き抜いて打ち込みを受けた。
「くっ…逃げろ!ここは俺が食い止めるから!」
 後ろから人の気配が遠ざかって行くのを感じて、莉玖は蒼真に向き直った。
「なんでだ!」
莉玖の顔が悲痛に歪んだ。たとえ、殺意を向けられても、その時の莉玖にはまだ、親友を殺す覚悟なんてもの持っていなかった。
「俺が…俺が仙堂だからだ!」
 蒼真は叫んで、莉玖の刀をはじいた。
「わけがわかんねぇよ!」
「お前にわかってもらうつもりはない!」
 激しい打ち合いとなった。
 莉玖は慣れない得物と戸惑いの気持ちでうまく刀が操れなかった。
それに、緋鳶を使えばおそらく優位になれただろうが、刀身が黒いことから蒼真の刀には滅魔の血が付いているとすぐにわかった。鬼を依らせることはその毒の効力を考えると逆に危険だった。
それでも、蒼真の隙を見て攻撃を仕掛けた。
「時雨穿(しぐれせん)!」
最大のスピードで繰り出される無数の突きのラッシュは、莉玖の得意技だった。
防戦に回った蒼真の背後を取るつもりだった。しかし、そこを蒼真に読まれていた。
「迷いが見えるぞ…」
 最後の一撃の時に莉玖は急所を狙えなかった。その一瞬、刀を跳ね上げられ、莉玖の体勢が崩れた。蒼真が逆に莉玖の背後をとった。
「しまっ…!」
 莉玖はとっさに振り向いた。
 その時莉玖の目に映ったのは、小さな背中。よく知った黒髪がたなびいて、崩れていく。
 赤い、赤い…鮮血が派手に飛び散って、斬った蒼真に降りかかる。
「あっ…」
蒼白な顔をして蒼真は彼と莉玖の間に飛び出し、蒼真の刃をその身に受けて真っ赤に染まり崩れゆく柚季を見た。
頭が真っ白になって、刀をとり落とし、体が硬直してしまった。手には人を斬った確かな感触が妙に生々しく残っていた。
「…ゆ、ず…き……?」
どさりと床に倒れた柚季を見て莉玖は力が抜けたように、へたり込んだ。
どうして?莉玖には母と一緒に逃げたはずの柚季がここにいるのか全くわからなかった。
柚季は逃げていなかった。もしもの時は自分が兄を助けるのだと固く思っていた。そこから生まれた行動だった。
 空虚な目を莉玖方に向けて柚季は倒れていた。蒼真の躊躇無く振り下ろされた刃は柚季の命を一瞬で断ち切った。
 放心状態の莉玖はまだ温かい柚季の頬に触れ、それから抱きよせて何度も何度も名前を呼んだ。
「柚季…柚季……柚季!」
 動かなくなった妹の顔を見て、抑えきれない悲しみと憎しみが莉玖の中にこみ上げてきた。
「嘘だ…なんで……なんで!うわあぁぁあぁぁ!」
『いかん!』
 緋鳶の制止する声も届かないまま、莉玖は慟哭と共に感情に身をまかせて、その身に宿る鬼力を一気に放出した。その力に引き寄せられて、言霊を唱えてもいないのに、緋鳶と忠光が反応ししまった。
強い力の渦が巻き起こり、深紅に燃え上がる炎が鬼力と共に天を衝いた。
「うわぁ!」
 蒼真は奔流する気の流れに吹っ飛ばされて、強く壁に背を打ちつけた。
 ゆるゆると目をあけると、双眸から止めどなく涙を流し、銀色の髪をして白く細い角を持った莉玖が、渦の中に立っていた。
 緋色に染まった左眼が蒼真を睥睨する。その眼に宿っているのはあまりにも強い怒り…。
 蒼真は戦慄した。
今、目の前にいるのが一体誰なのかわからなかった。莉玖のことは知っているつもりだった。鬼を宿していることも、神童と呼ばれたほどの能力を持っていることも、すでに人を殺したことがあることも…すべて。
だが、その夜闇にたたずむ莉玖の姿を見たことはなかった。
これが、渡吏…暮葉莉玖。
莉玖がこちらに向きなおって、動こうとしたとき一つの影が渦の中に飛び込んだ。莉玖を取り押さえたかと思うと、凄まじい力の渦が収まっていく。
蒼真はそれを見たあと、はっと気がついたように駆けだした。
 できるだけ早くその場から離れようと、逃げだした。

暮葉黎貴は莉玖の額と肩を抑え込んでいた手を放した。莉玖が感情に走って暴走させた鬼力を喰らい、霧散させて深く息をついた。
「馬鹿者…こんなことのためにお前に忠光を譲ったのではない」
 静かにそして、厳しい声音で莉玖を叱りつけた。辺りは莉玖の放った力と炎のために壁は砕けて、家全体が燃え上がっていた。
「…父さん」
 莉玖は、元の状態に戻って呆然としていた。
 黎貴は前線で戦っていた。しかし、そこで莉玖の気と思われる大きな力の奔流と火柱が立ち上ったことでひどく狼狽し、戦線を分家の者に預けてここに来たのだ。
 黎貴は悲しげな眼で柚季を見ると、しっかり抱きしめて、そのまぶたをそっと閉じてやった。
「…莉玖、水知に行け。水知はもっと酷いことになっているだろう」
「嫌だ!俺もここで戦う!」
「ならん!」
「なんでなんだ!俺は…俺は、柚季を殺した蒼真を…」
『貴様はいったい何者なのかを忘れたわけではあるまいな!』
 莉玖が言い募ろうとしたとき、緋鳶が中から一喝した。緋鳶はその姿を莉玖の前に具現化すると苛烈な目で睨みつけた。
びくりと体を震わせて、莉玖はうつむいた。
「私や緋鳶の言いたいことがわからないお前ではないはずだ…暮葉はもう助からない。初めからわかっていたことだ」
莉玖は沈黙したままだ。激しい戦いの音と、炎が燃える音が聞こえる。そう長くはここも持たないだろう。
うつむいた莉玖を厳しく睨んで黎貴は続ける。
「お前は何のために刀を握る?我々は殺人者だ。だが、暮葉としての矜持がある。忘れるな…それを踏み越えれば我々ほど容易く鬼と化す者たちもいないということを…私情で人を殺してはならん!」
 莉玖は奥歯を噛みしめ、握ったこぶしに力が入った。
 莉玖はさっき、激情にまかせて、蒼真を殺そうと考えていた。だが、それは鬼の道…暮葉が進むべきは渡吏の道。
顔をあげると涙の跡の残った莉玖の顔には、決意があった。
「今一度訊こう…お前は何者で何のために刀を振るう?」
「俺は…渡吏。天宮とこの世の秩序を守るために…俺の大切な人達がいるこの世を守るためにしか刀は振るわない…」
 黎貴は黙然と頷いたあと、静かに呟いた。
「静馬君に、済まない後始末を任せる、と伝えてくれ」
 莉玖は黎貴に一礼すると、背を向けて言った。
「……行ってきます…」
 莉玖は裏山の方角に抜けるべく走り去った。
 黎貴は目を伏せた。…辛い選択をさせてしまった。
 莉玖一人ならここから抜け出して静馬のところまでたどり着けるだろう。だが、他の者たちは軍隊と仙堂家相手に生き残ることは不可能だった。たったひとりで生きていかなければならない道を与えてしまったことに、黎貴は痛みを感じていた。
「柚季、私たちもすぐにそっちに行く。しばらく待っていてくれ」
 柚季を床に置いた。すぐに燃え盛る炎で焼かれてしまうだろう。
「最後まで暮葉の矜持を持ち闘って見せよう…」
 黎貴は鋭い目をして、戦いの音が響く方へと走った。

「緋鳶、悪かった」
莉玖は家から抜け出る前に一度立ち止まった。
心の中はまだ納得できないことであふれていた。それでも、自分がすべきことをしなければならないと、必死に心を律していた。
『わしとの誓いを違えてもらっては困る…』
 緋鳶はまた具現化して莉玖と向き合うように立った。
 莉玖は緋鳶と契約を結ぶときに一つ緋鳶に対して誓いを立てた。生涯違えぬと誓い、契約の言霊をもらった…そのことを思い出して、莉玖は真摯な態度をとった。
「違えない…絶対に。だから…」
莉玖は緋鳶に対してすっと右手を差し出した。
「力を…貸してくれ」
 緋鳶は普段からあまり表情が変わらない。だが、その一瞬だけ苦笑したように見えた。
 莉玖の手を取ってゆっくりと二人は詠唱した……

千々なる骸を足元に 狂気の渦を飲み下し
紅く吾が手を染め抜けば 緋桜のもとで 舞い契らん

 ほとばしる鬼力。莉玖の身に緋鳶が宿った。
外に飛び出ると、影牙の構成員たちが囲んでいた。その中の一人顔の右側を大きく縦に傷を負った男が目を細めて笑った。
「はじめまして、影牙筆頭・穂積犀璃です。自分を殺した男の名を知ってから逝く方がいいでしょう?死に逝く者に教えることこそが唯一の礼儀だと思っております」
 そう言うと問答無用で飛びかかってきた。
 莉玖は目を見てわかった。鬼に堕ちる手前だと…。
 呼吸を整えて、緋鳶に身をゆだねる。
 抜き打ちで一閃。穂積の右腕を肩から切り落とした。
 居合壱式・孤月閃(いあいいちしき こげつせん)
 耳をつんざかんばかりの凄まじい悲鳴がする。だが、振り返ることもなく莉玖は前を見据え、敵を薙ぎ伏せて走った。
 燃え盛る家を振り返り見ることもなかった。

立ち止まらない。ただ、前に進むしかない。たとえどれほどの屍を踏んだとしても、渡吏・暮葉の誇りを汚すことはしない。
自分が最後の一人になっても…その覚悟を人として背負う……

 蒼真は、あの場から逃げて裏庭の方に来ていた。無数の戦いの痕跡と死体が残っていたが、影牙や仙堂の人間は前線に行っていなかった。
 一本の松に片手をついて荒く弾んだ息を整えようとした。
「うぐぅ…げぇ…げほっ、ごほっ……」
 顔を上げようとしたとき、胃からこみ上げてくる吐き気を止めることができなかった。口元を押さえ、膝をついて吐き気を抑えようとした。
 その時、手が震えて止まらないことに気が付いた。
 初めて殺した相手が、親友の妹になってしまった。そのことに強い罪悪感と恐怖を覚えた。
 殺す覚悟は持っていた。だが、それは莉玖に対してだけで、すべての立ちはだかる人間に対してではなかった。
 蒼真は柚季を殺して初めて知った。
 彼が、刀を握った理由が、ただ莉玖が憎かったからという醜い感情だけだったということに。邪魔者を殺したいという衝動を守護というオブラートに隠して気付かないふりをしていたということに。
 蒼真は命を背負う覚悟がないまま…そして、殺人という罪を背負う覚悟のないまま柚季の命を奪ってしまった。
 消せない…今更引き返すこともできない…
 ぎゅっと目をつぶって溢れ出る今までの記憶と暖かな思いに蓋をして心の奥深くに沈めた。
 蒼真は近くに落ちていた刀を拾ってのろのろと立ち上がり戦場に戻っていった。

 たとえここから先が鬼の道だとしても…止まることは許されない。動き出した激情はもう止められない。
 だから……すべてを背負おう。憎しみも、罪も、なにもかも…鬼となる覚悟を今ここにする。そして必ず、罰を受けよう……

 時が流れてまた再び邂逅の時を迎えた二人。
 人であることを、誇りを、貫いた莉玖。
 鬼になってでも、とすべてを投げ捨て、想いを賭けた蒼真。
 人を殺すことは容易く、人を許すことは難い。
 想いの強さが、その一刹那に勝敗をつけた……

それでもあの時の選択を俺は後悔しない。





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