突如として現れた鬼に背後をつかれ崩れおちる蒼真を見て、三人は驚愕した。
思いがけない事態の中、反射的に朔は蒼真のもとへ走った。
腕が腹部を貫いていた。最悪の場合は即死。だが、もしまだ延命の余地があるならば自分の力を使って助けたいという思いで朔は走った。
鬼は一瞬、にやりと笑った。獲物が自分から飛び込んでくる様が面白かった。
鬼が動こうとした瞬間、黒い影が斬りかかった。鬼は片腕で受け止めたが相手の勢いに押され、少し後退する。
莉玖は怒気をはらんだ目で、激しく鬼を睨みつけ硬質化している鬼の腕にぎりぎりと刃を立てた。
「クスッ…その出血でやりあえると思ってんの?」
馬鹿にしたように、鬼が笑うと同時に右腕に力を込め、莉玖をなぎ払い、もう片方の腕の鋭利な長い爪が莉玖を襲った。三本の爪は刀で何とか防いだが、残りの二本が左の肩と二の腕を貫いた。
「うぐぅあぁっ…」
莉玖は無理やり刀で鬼の爪を折り、後退する。肩で息をしながら、鬼を睨みつける。くらくらする視界が、余計に焦りをかきたてる。
多量の出血で膝に力が入らなくなってきていた。それに、微量ではあるが蒼真の毒血が入ったままなので思考も鈍っている。
その一瞬を鬼は見逃さなかった。一気に間合いを詰めると莉玖の急所を突きにきた。莉玖は反応できずに、硬直する。
とても自然に、今までそこにいたかのごとく久苑が二人の間にすっと入り込むと、片手でよけられない莉玖の体をそっと後ろに押しやり、もう一方で鬼の突きを流すように返して腕の方向をかえ、逆に力を利用して鬼を放り投げた。
「全く…その血の気の多さどうにかならないかなぁ」
気の入らない声をあげて、体の傾いている莉玖をため息交じりに見る。
「その出血じゃまともに立っていられない。それに、蒼真の血は解毒なんてできない。時間をかけて自分の中で溶かすしかないんだ。しばらくじっとしておくことだね」
久苑は莉玖に背を向けて鬼を見た。
鬼は深い緑みを帯びた黒髪を肩先でザンバラに切り、瞳は翡翠色。一見、白っぽい肌でしなやかそうな体つきだが、力は強く肌も固い。
そして何よりも、その眼と赤い口元は常に残忍で狂ったような笑みをたたえていた。
「驚いたな。ただの人間に防がれるとは思ってなかった」
まじまじと手を見て鬼はつぶやく。
久苑はそんな鬼を無視した。
「莉玖、朔と蒼真の所に結界を張っておいたから、そっちに行っててくれる?」
振り向いて有無を言わさぬ笑顔を向けた。満面の笑みの裏側に、足手まといだ、そっちが無茶すると迷惑がかかるんだけど、といった嫌味な言葉が見え隠れする。
しぶしぶ、莉玖は後ろに後退する。
こういうときの久苑は意地でも己の考えを動かさない。久苑は、莉玖をひかせて自身が戦うことで、先の争いに備えられると感じ取っていた。だから、莉玖に戦う隙を与える気が全くなかった。
「あんたが俺の相手するのか?」
鬼は見下したように、口元を歪めた。
「確かに僕は莉玖達みたいに戦うのは得意じゃない。でも……」
久苑が肩の力を抜いてゆっくりと構えを取る。少し膝を曲げて腰を落とし、右手を前にして肘を緩める。左手は腰に添えるようにおかれ、どちらもこぶしは握っていない。
「陰陽師として百鬼夜行の調伏方法は心得てるよ」
余裕の表情をした久苑の目があやしく光った。
「その辺の鬼と一緒にしてんじゃねぇよ。糞餓鬼が!」
鬼が牙を剥き出しにして、久苑に襲いかかった。
蒼真は激しい痛みに身をよじり、薄く目を開けた。霞む目に映った人影が一瞬旺に見えたが、すぐに朔だとわかった。
「よかった…」
朔は青い顔をして蒼真の傷に手を当て必死に治癒を行っていた。
よく見ると、蒼真と朔の周りには久苑が形成したであろう堅固な結界があることがわかった。
確実に死んだと思っていたのに…どうやら俺は生かされたようだ。
蒼真は鬼に体を貫かれたとき反射的に体をずらし急所を避けていたので即死を免れ、朔の治癒能力によって一命を取り留めた。
「なぜ…?」
その一言が鉄の味が充満した口からこぼれた。自分を殺そうとしていた蒼真をなぜ助けたのかわからなかった。
「蒼真さんが死んだら、姉さんが悲しむ……」
朔は苦笑した。
「腕が落ちたな。そんなんだから背後を突かれんだよ」
壁にもたれかかって、顔をそむけた莉玖が蒼真に対して憎まれ口を叩く。肩で息をし、かなり消耗していることが見て取れた。
「相変わらず、生意気な…」
「静かにしていてください!意識が戻っただけで、いつ死んでもおかしくないんです!」
蒼真は一喝されて押し黙った。旺とよく似た容貌の朔に怒られると、まるで旺に怒られているような気分になった。
朔はとりあえず息をついて、治癒術を止めた。意識も戻ったので、後は気力さえ持てば大丈夫だと踏んだのだ。
そして、莉玖の方に向き直った。
その手を取って、治癒をしようとすると、手を払われた。
「いらねぇ」
「なっ…!死ぬ気?」
「そんな顔のやつに直してもらいたくねぇ」
朔の顔色は真っ青だった。ただでさえ、万全の状態じゃないところに、蒼真の治癒のために大量の気を使った。朔の激しい疲労に莉玖は気が付いていた。だが…
「…無理やりにでもする。その傷は、私がつけたも同然だから…」
朔は無理やり莉玖の手を取ると、治癒を開始した。
莉玖は軽く舌打ちをすると、なにも言わずに顔をそむけ、久苑の方を見やった。
久苑は鬼の猛攻をうまくそらして、カウンターを入れていく。
戦闘員としての訓練は受けていない。だが、その身を守るための最低限の武術は身につけていた。久苑は中国拳法の使い手だ。
後の先、つまりカウンターを得意とし、力をなやすことにかけては右に出る者はいないといわれていたほどだ。
ただ、いかんせん筋力がない。決め手が弱いため、鬼にはたいして効かない。
「イライラするやつだな」
攻撃をなやされてばかりの鬼はいったん間合いをあけ、久苑を睨みつけた。
久苑はにやりと笑った。距離を取ってくれる方が陰陽師としてはやりやすい。
「謹請(きんぜい) 天蓬てんぽう)……」
久苑は静かに呪(しゅ)と共にすり足で左足を一歩前に出す。
「…天内(てんない) 天衝(てんしょう) 天輔(てんぽ) 天禽(てんきん) 天心(てんしん) 天柱(てんちゅう)…」
素早く続けて右足、左足を半歩、そしてまた左足…といった具合に、歩を進める。
「禹歩(うふ)か!」
鬼が久苑の呪を聞き、焦った時にはもう遅かった。
「…天任(てんにん) 天英(てんえい)!」
最後に左足を大きく踏み鳴らした。
鬼の下から、さっき久苑が踏んだ形に光がカッと立ち上った。
「ぐわぁ…!」
鬼が身もだえて暴れる。だが、光の檻から逃れることができない。
「陰陽道における基本中の基本である祓(はら)えの歩法・禹歩。それほど強力じゃないけど、足止めするには十分だ……」
久苑は数珠を絡めた右手で刀印を作り、霊力を高めた。久苑の白い髪が発光して、ザワリと揺らめいた。
「臨(りん) 兵(ぴょう) 闘(とう) 者(しゃ) 皆(かい) 陣(じん) 列(れつ) 在(ざい) 前(ぜん)」
刀印を四縦五横に切って退魔の呪『九字』を鬼に放った。
「南斗北斗三台玉女……」
厳かに詠唱する男の声が聞こえた。
九字は当たる寸前で、はじかれ砕かれた。思いがけない事態に久苑は目を見張った。
「これは…!」
久苑の目に険が宿る。
そして、ひとりの男が現れた。
「乾(かん) 坤(こん) 元(げん) 亨(こう) 利(り) 貞(てい)」
大きく踏み鳴らす音と共に、鬼を拘束していた久苑の光が砕けた。
男の年のころは五十代。白髪交じりの頭とでっぷりとした大きな体にひげの生えた、いかめしい感じの男が鬼に近づいて行く。
「宵戯(しょうぎ)…お前の役目は蒼真を始末して女を連れて行くことのはずだ」
「ちっ、邪魔が入ったんだよ!」
「私が片づけておく。お前はさっさと女を連れて行け」
激しい命令口調で鬼に指示を出すその男は、久苑を見て嫌悪を露わに睨みつけてきた。
宵戯と呼ばれた鬼は明らかに嫌そうな顔をして、久苑の横を飛びこえていった。
だが、久苑は声もあげることなく宵戯を無視して、じっと動かずに男を睨みつけていた。
「やはり蒼真はしくじったか…これだから若い奴は…」
「お久しぶりです……叔父さん」
「二度と会いたくなかったよ、久苑」
その様子を見ていた莉玖は渋面を作り、立ちあがって宵戯の前に立ちはだかった。
莉玖の傷はあらかたふさがっていた。ただ、貧血と蒼真の毒血は体内に残っているのであまり無茶はできない。
「面倒くさいな」
宵戯は気だるそうに首を傾けた。そして、一気に片をつけようと急所狙いに攻撃を仕掛けてきた。
激しい攻防を繰り広げるが、莉玖はどこか違和感を覚えた。
その違和感は確かなものとなった。
一瞬の隙をついて、宵戯は莉玖の頭上を飛び越えると、奥の鉄の扉を破壊した。
「しまった…狙いは旺か!」
宵戯の狙いが朔に向いていると思っていたために、一瞬の判断が遅れた。ここには旺もいたのだ。
蒼真の顔色が一気に変わった。立ちあがろうとしたが、傷口が痛んで立ち上がることができない。
「旺様!」
悲痛な叫びをあげた。
莉玖はひしゃげた扉から中に駆け込んだ。
窓ガラスが割られ鉄格子が無理やり引き裂かれていた。
宵戯はわざとその壊れた窓枠に止まって、莉玖を待っていた。その小脇に、長い黒髪の女がぐったりして抱えられている。
「楔さえ死ねばこっちのもんだ。じゃあな、馬鹿な渡吏」
傾いた太陽の紅い光が差し込む。薄暗い部屋に逆光が差し込む中、宵戯の嘲った炯眼がくっきりと浮かんでいた。
「旺!」
莉玖が駆けて叫び手を伸ばした時、旺がうっすらと瞼を開けた。
「……」
何かを口走ったがその声は莉玖には届かなかった。
莉玖の伸ばした手は、空を掻いた。
宵戯は旺を連れて、ビルの側面を飛びあがっていく。
「くっそ…なめるなよ!緋鳶!」
『いいのか?』
「時間がない。リスクは背負う!」
言霊を詠唱し、銀髪になった莉玖は激しい頭痛と目眩を覚えた。ぐらついた体を、大きく足を踏み出して、無理やり支える。
窓枠に足をかけて、飛びあがろうとした時、コートを後ろから引っ張られた。
振り返ると必死の形相の朔がいた。コートをしっかり握って離すつもりがないらしい。
「私も連れて行け!」
「足手まといになる。それに、連中の狙いはお前でもあるんだぞ」
「自分の身は自分で守る。姉さんを助けると言い出したのは私だ!私がやらなくてどうする!待つなんてことはできない!」
莉玖は大きくため息をついた。梃子(てこ)でも動く気がないな…
「俺は助けねぇからな」
不機嫌そうに向き直って、朔を右手で抱きよせ、腰を密着させて抱えると、勢いよく飛びあがった。
壁の細かな突起に手足を起用にかけて、莉玖は側面を駆け上がっていく。
日が傾いて、空が陰ってきている。月がその姿を現し始めていた。晩秋の今、日没が早い。おそらくは午後五時を回った頃だろう。
思った以上に時間を稼がれていたのか…
莉玖は舌打ちをして、駆けるスピードを上げた。
久苑の心はいつになく落ち着いていた。今、自分の目の前に、兄の敵(かたき)とも言える人間が立っているというのに冷めた面持ちで向き合えていた。ほんの数日前に同じような状況で逆上してしまったのが嘘のようだ。
ただ、くすぶる黒い感情は消えることを知らない。
なぜなら、あの十年前のあの日を、久苑もまた忘れたことがないのだから……
肉親同士が争い、呪術が飛び交い、式達が人を襲う。放たれる銃弾の雨と、充満する血と死のにおい。誰がどこで放ったのか、火が走り、家が燃えていく。今思えば、証拠隠滅を兼ねて家を焼いたのだろう。
あの夜はまさに地獄絵図……
あの時もし、莉玖が来なかったら、僕も兄さんも家から脱出することもできずに殺されていただろう。
0区に落ちるため、《扉》に侵入し、運輸用の車の荷台に身を潜めたとき、莉玖が重く口を開いた。
「静馬兄…父さんから伝言。『済まない後始末を任せる』って」
その言葉を聞いた瞬間、僕は背筋が凍るような嫌な予感がした。
「…あぁ、わかっているよ」
兄さんは、いつもの柔らかな瞳を細い楕円形のメガネの奥でした。すべてを悟っているようだった。
「二人に話しておかなければならないことがある。いいか、しっかり聞くんだ」
兄は真剣な目をして僕ら二人の顔を見た。
「今日のことの発端は、白鷺グループだ」
「白鷺!」
「ここ近年、天宮たち神官家は落ち目だった。そこに、援助を申し入れてきたのが白鷺だった。今の神官家は、白鷺の援助なしではやっていけないほど傾いていてね…」
莉玖も、僕もあっけにとられた。まさか、そんな事態になっていたとは露ほども知らなかった。
「そして、どこからつかんだのか白鷺の総帥が我々神官家と冥官家のことについて、脅しをかけてきた。暮葉は勿論、水知だって黒いことはやってきている」
僕も、莉玖も視線を落とした。自分たちがどれほど特殊な家系に生まれ生きてきていたのかは知っていた。
「白鷺は、今の暮らしがしたいのならば、彼らの言う通りに陰陽の気を操作しろ、って言ってきたのさ」
「そんなことしたら、バランスが狂ってしまう!」
「馬鹿な!神にでもなろうってのか?」
思いがけないことに僕らは狼狽した。
「そう。我々も馬鹿なことをと思ったよ。たとえ路頭に迷おうとも、我々はその話に乗るつもりはなかった…そう、暮葉・水知はな」
「それって……」
僕は今頭によぎった考えを否定したかった。だが、それが事実だった。
「神官家はその話に乗った。そして、水知の分家もな…自己保身…すべては大人たちの醜い欲のせいだ……」
悲しそうな目をして、兄さんはうつむいた。僕たちは何も言えなかった。言いたいことも訊きたいことも複雑に頭の中で絡まって、ただ深く悩み苦しむことしかできなかった。
「さて、後始末の話だ」
はっと、僕は顔をあげた。この話は聞きたくなかった。でも、兄さんは僕の目を見て、はっきりといった。
「0区に着いたら、俺は一緒に行けない。俺は冥道門(めいどうもん)に行く」
「どうして!」
血の気が一気に引くのがわかった。あぁ、これが嫌な予感だったんだと気が付いた。
0区の地下…海底には冥界へと通じる門がある。日本列島においての鬼門。出雲の黄泉の坂が正門ならば、こちらは裏門であった。
冥道門は昔からひずみの生じやすい門で、放置しておけば、陰の気が漏れ出やすい。そのために暮葉や水知がこの地での監視をしてきたのだ。
冥界へ通じる門に行くということは、生者では無理なことだ。
「何で兄さんが!」
僕は泣きながら、兄さんにすがりついた。
「暮葉や水知が監視できない状況に陥った今、冥道門をふさいでおく掛金が必要だ。それは、陰陽どちらにも偏らずどちらも操れる調律者たる水知がするしかないんだ…」
「そんなのただの人柱だ……」
「そうだな…掛金になるということは、冥道門とこの世の狭間に身を置いて二度とここには戻ってこられない。だけどな…そこで、俺が人柱となって、陰陽の気を押さえなければ、この世は急速に崩壊へと向かう……今回のことは、始まりにすぎないんだ…」
涙に濡れた目で僕は兄さんの顔を見上げた。いつもと変わらない微笑みを兄さんは僕に向けた。
「お前と莉玖は、これから先0区にいて、冥道門の見張りとならなければならない。それが、与えられた役目だ……久苑、天命だ」
「嫌だ!嫌だ、いやだ、いやだ!僕にはもう兄さんしかいないのに!」
小さな子どものように、駄々をこねて、首を激しく横に振った。
「久苑…眠りなさい」
兄さんの言葉が言霊となって僕を縛った。瞼がどんどん重くなっていく…。そこに、柔らかな兄さんの最後の声が耳に響く。
「恨むな…久苑。これが調律者という者だ。常に凪いだ心で、この世を見定め、人を救うのが陰陽師…。俺は俺の仕事を…この天命を全うする。お前はお前の天命に従え…だから俺は行くよ……」
待ってと言いたかった。行かないでと言いたかった…。どんなことをしてでも失いたくなかった。大好きな兄さんを…。
「お前は…生きろ…」
次に目が覚めた時には、兄さんはもういなかった。
遠い昔のことを思っても今は冷たい笑顔を絶やすことなく彼の叔父に向けてじっと黙っていた。
叔父の隆弘は、沈黙に耐えかね、いらいらした様子で口を開いた。
「あの時、静馬が邪魔をしなければ、もっと事が早くすんだものを」
十年前に静馬が人柱となったために冥道門の開放が止められた。
そのために白鷺は天秤崩しをするための十分な陰陽バランスの準備を十年もかけてする羽目になったのだ。
「変わりませんね…十年たっても、あなたは」
眉根を寄せ、嘆息気味に言われたことに、隆弘は声を荒げた。
「お前のようなひ弱な小僧に何ができる!」
隆弘は刀印を作って五芒星を切ると、式が現れた。黒い体に白い毛並みの牛に似た大きな獣の妖だ。眼が金に気味悪く輝いている。
「伊鈴(いすず)…やれ」
低く隆弘が命ずると、伊鈴と呼ばれた黒い妖はにたりと笑って、赤い舌で舌舐めずりして襲ってきた。
久苑は落ち着いて無表情なまま、静かに五芒星を切ると疾風を呼び出した。
「あれ、相手にしててくれる?」
疾風は首肯すると、勢いよく風を起こして伊鈴に向かって行った。
式同士がぶつかり、妖気の渦が巻き起こった。
隆弘は少し驚いた風だったが、すぐに合掌して呪を高らかに叫ぶ。
「請い願う! 炎天(えんてん)に住まう火神(かしん) 恐恐(きょうきょう)たる朱雀(すざく)の鼓翼(こよく) 万象一介(ばんしょういっかい)を灰とする大火 我が両手に宿れ!」
隆弘の両手に炎がまとわりついた。
「焔魔斥滅(えんませきめつ)!」
勢い付いた炎の渦が久苑に向けて放たれる。
久苑は冷笑し、合掌すると淡々と呪を唱えた。
「請い願う 水鏡(みずかがみ)の底に佇む水神 清々たる青龍(せいりゅう)の咆哮(ほうこう) 泡沫(うたかた)を飲み込む津波 我が身に分け与えよ」
久苑の周りを水の渦が取り囲む。
「洪江呑渦(こうこうどんか)」
久苑の放った水の渦が炎の渦とぶつかり呑みこんで隆弘を襲う。
「馬鹿な!」
隆弘が水に足元をすくわれ体勢を崩す。そこに追い打ちをかけるように、久苑はさらに呪を唱えた。
「伏して願わくは 聴き届けよ 我が勧請 雲間に宿る雷神 其の射手の放つ紫電の光 我に貸し与え 彼の仇を撃ち摘め」
久苑の刀印を作った右手に紫電がバチバチと音をたてて纏わりついている。
「電光灼摘(でんこうしゃくてき)」
呪と共に刀印を振り下ろす。稲妻が隆弘を襲った。それをすんでのところでかわす。
「ぐあぁ!」
水に濡れていた隆弘は直撃をまぬかれたものの通電して、もんどり打った。
「そんな…あのお前が五行操術(ごぎょうそうじゅつ)を扱えるなんて……」
かすれた声で、隆弘が呻く。
木火土金水を操る五行操術は、陰陽術の中でも高難度の術だった。
「……十年です。僕が0区に落ちて。あそこでは、強者しか生き残れないんですよ。僕もね、安穏と生きてきたわけではないんです」
うっすらと微笑しているのに、その気迫が隆弘を縛りつける。
久苑が一区にいた十年前は、まだまだ未熟で、ろくに呪を扱えなかった。宗家始まって以来の落ちこぼれとまで言われた。昔の久苑は気の強い方ではなかったし、争いごとも嫌いだったので、調伏の呪は好んで修練しなかったことも関係していた。
しかし、0区ではそんなことも言っていられない。生き残るためにはそれなりの力が必要だった。
「確かに、叔父さんは僕よりも経験が豊富で、術の行使も上手い。でも、僕の方がより強い霊力を持っている」
淡々と話し隆弘に近づく久苑の白髪が発光してたなびく。
その昔から、水知の者は色素が薄い。それは、内包する霊力の高さを示していた。霊力が高ければ高いほど、奇形な姿をとった。
久苑の兄・静馬はその髪・目の色共に薄茶。久苑はそれを凌ぐ白髪。ただ、目の色だけは深い漆黒であった。
久苑の霊力は歴代でも類を見ないほどの強さを持っていた。ただ、その強すぎる霊力の制御に大変な労力がかかるのだが。
「貴様ら兄弟は、どれほど私の邪魔をすれば気が済むんだ!」
隆弘は怒声を上げて久苑を睨む。
「あなたがこの世の安定を乱すものである限り何度でも…」
静かに目を伏せて、久苑は答える。
「陰陽道だ、調律者だと、今の時代そんなものが何の役に立つ!誇りで生きていくことなどできはしない!初めから俺が当主であったなら、もっとうまく水知を使えたんだ!」
隆弘は、激昂して印を結んだ。
「禍事(まがごと)よ 魔が事(まがごと)よ この身を食い尽くしても 彼の仇を葬れ!」
床から、どろどろとした黒い異形が現れ、一斉に久苑を襲う。それは妖ではない。久苑の四肢を捕えて蝕む。
「死鬼を呼ぶとは…堕ちるところまで堕ちたか!」
久苑はその激昂を抑えきることができずに激流のごとく奔流する霊力と共に纏わりつく死鬼を払いのけ、隆弘にぶつけた。
隆弘の呼び出したそれは、死鬼と呼ばれる冥界にいる卑しい下級の鬼。災いを運び、人を死へと誘う。陰陽師として、死鬼を呼ぶことは、最低の禁術とされていた。
久苑は瞑目して粛然と印を結んで呪を詠唱する。
「謹請(きんぜい)し奉る 山海八百万(さんかいやおよろず)の神々よ 禍々しき罪穢れ 皆々祓い清めんがため 薙ぎ払う力を与えよ 静謐(せいひつ)な神力に 陰なる力を飲み込まん」
カッと目を開いて、号した。
「万魔降伏(ばんまごうぶく)!」
甚大な霊力が波となって何重にも衝撃を伝え、死鬼を粉砕していく。隆弘も霊力に吹っ飛ばされて、激しく床に叩きつけられた。
肩で荒く息をして、久苑は呻く隆弘のもとへ近寄り、殴りつけた。
胸倉を掴んで苛烈な眼差しを向ける。そこに、それまでの冷静さは微塵もなかった。
「これがあなたの馬鹿にした水知の陰陽師だ!」
何も言えずに、ふらふらした隆弘の胸倉を放した。
両手を広げ、うすら寒いほどの満面の笑みを隆弘に向けて告げた。
「命は奪いません。でも、あなたから全てを奪ってあげますよ」
隆弘は血の気の引いた顔をして、ガクッと気を失った。
恨まないことなんてできない。だけど…
水知の誇りは汚すものか……
久苑は隆弘に背を向けて、振り返ることはなかった。
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