日が高く昇り、時刻は昼の一時になろうかとしていた。季節は晩秋。日差しは柔らかくどこかものさみしい。0区においてもそんなことを感じる穏やかの時というのは存在する。
莉玖(りく)達は喫茶店「さざ波」で、マスターである誠一(せいいち)を抜いて、テーブルで物騒な話をしていたが。
「これからどうするつもりだ?」
莉玖は残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「朔(はじめ)の目的は旺(あきら)の奪還。旺の所在は分かっているの?」
久苑(くおん)はやさしく笑ってそう尋ねた。久苑はどうにもつかみどころなくいつも笑っている。
「…おそらくとしか言えないけど、一区にある白鷺グループの研究所(ラボ)だと…」
「つまりは白鷺の本社だな。あそこに侵入するのは骨が折れるな」
莉玖が苦い顔をしたかと思うと、すぐ思いついたとでも言いたげな顔をした。
「やめとこうか」
「なっ…!」
ガタっと朔が思わず椅子から立ち上がって莉玖を睨んだ。
「冗談だ。もう少し平常心を養ったらどうだ」
不敵に笑う莉玖を見て、やはりこの男は気に入らないと再認識する朔だった。
「ともかく、準備が必要だよ。侵入経路・敵の警護状況・旺の居場所…情報が必要だし、武器もそろえないといけない」
苦笑気味に久苑がそう言うと、莉玖とお互いに目配せをして行動をとった。
莉玖は携帯電話を取り出しおもむろにどこかへ電話をかけるため外へ出た。
久苑は店の奥に消えていた誠一(せいいち)のところへ行った。
朔は膝の上のこぶしを握り締めた。
私は何もできないのか…。ここ0区に来てからというもの何もできずにいることがほとんどだった。
自分がどれほど無力で今まで狭い世界にいたかを痛感させられた。
それに自分は何も知らなかった。冥官のことも、陰陽師のことも…十年前に滅んでいたことも…。
朔は自分のことが恥ずかしくて、悔しくてたまらなかった。
莉玖が何を考えているのかまったくつかめないし、久苑の実力もどれほどのものかわからない。今会ったところの人間をどこまで信じていいのかも…わからないことだらけで、なのに、敵は強大で最愛の姉もいない…。不安ばかりが募っている。
それでも…それでもこれでやっと姉さんを助けに行ける。姉さんの言葉を信じる。そして…必ず姉さんを助けるのだ。
そうでなくては、私の存在は……
そうだ、悩んでいる暇などない。
そう思って顔をあげた。
「朔、こっちに来て」
奥から顔を出して久苑が呼んだ。
朔はぱたぱたと店の奥にかけていった。
「……そういうわけだから、頼めるか?」
「仕方ないわね。ハジメの方は少し時間がかかるかもよ」
「わかっている。だが、そうそうのんびりとしていられない」
「なんとかしてみるわ………それより、あんた達大丈夫なの?」
「…切るぞ」
「ちょっとリ…」
莉玖が電話をかけていた相手は春香(はるか)だった。彼女ならある程度すべての物をそろえられる。それに、彼女の協力なしでは1区潜入はかなり困難だった。その春香が何か言う前に、さっさと電話を切ってしまった。
店の中へはいって誰もいないカウンターにもたれかかり、莉玖は春香の言った言葉を頭の中で繰り返した。
大丈夫…か。
そして、クツクツと笑った。大丈夫なわけはねぇ。このどす黒い感情を抑えつけるのはなかなか大変だ。
そう思い、右手で顔を覆った。覆った顔の下で凄絶な笑みが漏れてしまう。こんな姿を見たらまた久苑に何を言われるか。それに、流石に朔にはまだ見せるわけにはいかない。
この思いはそう、血に飢えた獣の感情…
『久しぶりに血がたぎるか…』
どこからともなく響く声が莉玖にそう言った。
「そうだな、疼(うず)くな…。それはお前も…だろ」
『確かに…強い力の渦を感じる。戦(いくさ)の…臭いだ』
響く声も笑っているようだ。
「おそらく、冥府からも命がそろそろ下るはずだ。久しぶりに本気でお前の力が必要になるだろう」
『…十年ぶりか……』
「あぁ…刃に炎を灯す時がきた…」
莉玖とは背中合わせに今までそこにはいなかった人物が突如現れた。それは人ではなかった。姿かたちは人のそれに似ているが、銀の長い髪に灰色の眼。着ているものは真っ黒の羽織はかま。尖った耳に、二対のすらりとした角をもっていた。
彼は冥府の官僚である莉玖の憑き鬼(つきおに)。莉玖に従い、莉玖と共に冥府から下される命を遂行する鬼であった。
名を『緋鳶(ひえん)』強大な鬼力(きりょく)の持ち主。常に莉玖につき従っていたが、彼自身に本体はない。ここにいるのは彼の思念体。莉玖の言霊(ことだま)によってその制約がとかれる時まで彼はほとんど本体とその力を冥界に囚われている。それは彼が太古に犯した罪がため…。
彼の魂は今、契約している莉玖の左目に宿っている。思念の身に力はないが、意識すればこうして人前に現れることも自由にできる。ただ、あまり人となれ合うのが好きではないためその存在はほとんどの人間が見たことがない。
『渡吏(わたり)の仕事か…やつを斬れるのか?』
背中合わせのまま緋鳶は莉玖にそう尋ねた。
やつ…緋鳶の言葉に人影がよぎった。
「…その必要があれば、確実に仕留めるさ」
顔を覆った手が下ろされた。そこにはいつもの不機嫌そうな莉玖の顔があった。
そして、店の奥にいる久苑たちのもとへと向かった。
緋鳶は一つうなずくとまた姿を消した。
喫茶店「さざ波」の奥には膨大な量の資料とハイテク機器がずらりと並ぶ部屋があった。ここは、放形誠一の情報屋としてのもう一つの商売部屋であった。
「…すごい」
ぽつりと朔がこのハイテク機器を見てこぼした。
「確かにすごいかな。僕らはもう見慣れたものだけどね」
久苑が微笑んで見回す。
「これほどの機器がそろっているところはそうそうない」
少し自慢げに誠一が言った。
しばらく、その部屋で機器を眺めながら莉玖がくるのを待っていた。
「待たせたな」
莉玖が少し遅れて部屋に入ってきた。
「春香には話をつけた……誠一、仕事だ」
「さて、どういった情報がいるんだ」
「《扉(ゲート)》の警護状況と、白鷺本社の警護・セキュリティーに関する情報。それから、ここ十年の白鷺の…いや、影牙の動きをわかるだけ欲しい」
誠一は険しい顔をして莉玖達を見た。
きっぱりと言い切った莉玖と、久苑のうなずく顔を見て一度目を伏せてから言った。
「………高くつくぞ」
そこには、少し諦めたような気持が含まれていた。
「ちっ。わかってるよ。お前の依頼料につけとくからな」
舌打ちをしながら、朔のほうを見た。
「莉玖、彼女から取る気なのか!」
久苑が驚いて言った。
「当たり前だ。これは仕事なんだからな。久苑、お前ボランティアで助けるつもりだったのか?」
久苑は呆れてものも言えなかった。こいつの性格の悪さは筋金入りだと久苑は改めて思った。
「誰の金でもいい。こっちは貰えればそれでいいんだからな」
誠一はメインコンピューターのキーボードをカタカタ言わせながらそう言った。
誠一は情報端末をコンピューターから抜き出すと莉玖に投げ渡した。
「《扉(ゲート)》と白鷺本社の見取り図だ。本社の方は少し古いが基本構造は変わっていないはずだ。詳細と影牙については明日中には渡せると思う」
「わかった」
受け取って、端末を見ながら莉玖が言った。
「さて、店も開けなければならんな。いつもよりずいぶんと遅れてしまった」
メインコンピューターから離れ誠一は店の方へと歩いて行った。
「どうせ、ほとんど人入ってねぇんだから大丈夫だろ」
莉玖が皮肉めいて言った。
「俺のコーヒーを求める玄人がいるんでね。閉めとけねぇんだよ」
誠一は莉玖の言葉に対して怒ることもなく、さらりと受け流した。このあたりは大人の対応と、莉玖との付き合いの長さから培われたものだ。
みな、誠一の情報部屋から出た。
「誠一、頼んだぞ」
莉玖はドアの取っ手に手をかけて外に出て行った。
「わかった」
誠一は手をひらひら振りながら莉玖を見ずに店の準備をし始めた。
朔が後を追うように駆けていく。そのついでに誠一を見て言った。
「あっありがとうございました!」
その姿を見て、誠一は思わず笑ってしまった。
誠一は生まれたときから0区で育った。はっきり言っていい育ち方はせず、生きていたころの春香の父親によく面倒になった。
春香とはほとんど幼馴染というよりも兄弟に近かった。そんななか生きてきた誠一にとって、朔は身分違いもいいところで、しかも自分に対してお礼を言うとは…なんともおかしいものがあった。
彼女の眼は澄みきっていた。純粋…消えてほしくないものだな。柄にもなくそんなことを思っていた。
誠一は同じ一区から来た人間を二人知っている。だが、会ったときには二人とも闇を灯していた。彼自身と同じ、暗く深い闇を知る者たちだった。
「誠一さん、僕、莉玖達と一緒に行ってきます」
久苑の声が誠一を瞑想から現実へと引き戻した。
「あぁ、あいつの家、寝るとこないが大丈夫か?」
「一日や二日程度雑魚寝でも平気ですよ」
朗らかに笑って、久苑も店を出た。
莉玖の家に着いた三人は莉玖のパソコンに端末を設置し、《扉(ゲート)》と白鷺の本社見取り図を画面に表示した。
「白鷺のところに乗り込むにはまず、1区と0区を結ぶ《扉(ゲート)》を突破しないといけない」
久苑が画面の上方に浮かんでいる渡り廊下のような道の見取り図を見ながら朔に言った。
「《扉(ゲート)》って通れないの?私はあそこを通る運輸トラックに滑り込んで、こっちに来ることができた」
大した警備もなくあそこに滑り込んだ時はまだ追手は自分のことをとらえきれていなかった。と、朔はつい三日前のことを思い出した。
「確かに、1区から0区に行くには大した関門じゃないね」
苦笑して久苑は朔にそう言った。
「だが、逆はかなり厳しい。1区に住んでいるお偉いさんを守るためにこっちからの侵入を厳しく取り締まっていやがる」
眉間にしわをよせ、いやそうな顔をして莉玖が吐き捨てた。
「あそこを通れるのは身分証と通行許可書を持った一部の人間のみ。他の人間が入ろうとしても穏便に侵入なんてほぼ不可能」
お手上げといった格好を久苑がしてみせる。
「《扉(ゲート)》は海底トンネルだから逃場は無い。そしてこいつの難題は白鷺配下の貿易会社ビルに組み込まれているところにある。白鷺の警備力は半端じゃないからな」
莉玖は朔の方に向き直って、指を一本立てた。
「まず、地下に下りるまでに身分証明・身体検査・積み荷検査がある。ここでたいていは引っかかって終わりだ」
二本目の指を立てる。
「次に、運良くここを通り抜けたら、トンネルでの警備員と防犯機械たちとのドンパチになる」
ため息交じりに、三本目の指を立てて見せた。
「第三に、《扉(ゲート)》を抜けよしんば1区まで行けたとしても、地上に出たとたんに待ち構えていた警備にハチの巣にされて終わりだ」
手を下ろして面白くなさそうな顔をして付け加える。
「たとえ上の海を越えていこうとしても、白鷺の私軍に阻まれる」
「…どうするつもり?」
画面を見ながら朔が渋面を作った。
机に頬杖をつき、あいた方の手で画面の見取り図を指差しながら莉玖は説明を始めた。
「まず、地上からの侵入はたいして問題じゃない。最初の門は通行許可書の確認と身分証だけで通れる。これは、春が持っているから俺らは荷台で息をひそめておけばいい」
画面の地上の入り口付近を指差して莉玖が言った。
「次に、身体検査と積み荷検査。これは、中に入って奴らの用意した検査役人がする。このときは、久苑に任せる」
えっ?といったふうに首をかしげて朔は久苑を見た。
「人の目ってのは案外アバウトなものなんだ。僕の陰陽術である程度のごまかしがきく。ここには荷物しかないって思わせることが可能なんだ」
ふっと微笑んで久苑は答えた。
「問題はこの後からだ。人なんてどうとでもなる。俺たちの厄介な敵はコンピュータープログラムだ。最後の《扉(ゲート)》の前での防犯プログラムによる熱探知は必ず引っかかる。こいつらは真正面からたたきつぶすしかない。つまり、ここからは完全に力ずくでの勝負ってことだ」
画面から目を離し、くるりと振り向いて、朔の顔を見た。
「ここから先は文字通り駆け抜けるしかない。俺と久苑ならどうってことないが…お前はどうする?足手まといはごめんだ」
背筋がぞっとするような眼差しを朔は受けて息をのみぐっと奥歯をかみしめた。
「…姉さんは私が助ける」
喉の奥から声を絞り出すように朔は答えた。
莉玖は嘆息して、もう何も言わなかった。実際初めからこうなることは予測できていた。最初に朔を試した時点で、人に頼らず自力で何とかしようとするということを見抜いていた。それに、天宮家において巫女の守護を務める護り女(まもりめ)として鍛えられてきたことも分かっていた。そこまで足手まといにはならないだろうし、逆にここに置いて行った方が危険だった。
「莉玖もそんなに脅さなくってもいいのに」
そうした思いを読んでか、久苑は苦笑した。
久苑のこうした一言と彼の絶えない微笑みがいつもどこか乾いた感じのある莉玖の周りを潤しているようだった。
「ともかく、《扉(ゲート)》突破には時間がかかりすぎるとこっちが不利になっていく。いいか、手順だけ覚えとけ。まず……」
一区侵入のための《扉(ゲート)》突破作戦が話し合われた。
長い話し合いは日が落ちたことも分からないくらいに三人を集中させた。
「…細かいことをお前は気にするな。俺と久苑でその場その場で対応していく」
最後に莉玖が朔に言った。
朔はこくりと頷くことしかできなかった。この作戦を練っているうち、自分がどれだけ知識がないかを思い知らされていた。
話がひと段落して、莉玖が夕食を作り、食べ終えた後、莉玖はさっさと書斎へ引っ込んでしまった。絶対入るなと言い置いてだ。
何を考えているのか朔には、やはりわからなかった。
朔がふと部屋を見回すとそこに今までいた久苑もいなくなっていた。よくよく見れば、ベランダにつながる居間のガラス戸が開いていて、夜風にカーテンがたなびいている。そっと近づいて見るとベランダで久苑が空を見上げて曇った顔をしていた。
「どうかした?」
朔は莉玖とは違い朗らかな雰囲気を持つ久苑に対しては取っ付きやすく、好意的なものを持っていた。どこかしら、姉と似たものを彼から感じ取っていたためだろう。そのため、とても話しかけやすかった。
「あぁ、星がね…あまりよくないことが起こりそうだと…示しているように見えてしまったんだ」
「星?」
言っている意味がどうも理解できなかった。朔の問いかけに対して久苑はやさしい笑みを浮かべた。
「陰陽道において星見(ほしみ)―天文学―は世に起こる事象を見る指針として重要な役割を担っているんだ。もちろん、今の技術からこの夜空に広がる星たちが人にかかわりないことは知っているんだけどね。でも実際、僕たち陰陽師は独自の科学的根拠と千年も昔から伝わり、会得し感じ取ってきたものから星からの訴えを聞くことができる…そう思っているんだ」
とても優しく穏やかな口調で久苑は語った。ほほ笑む顔の久苑の漆黒の瞳はどこまでも深い色をしていた。
「科学なんて人の生み出した技術の一つ…人は神ではない。私はわからないことや不思議なことがあったほうがいいと思う。じゃなきゃ、世界はとたんにつまらなくなってしまうでしょ」
朔は楽しそうに笑ってそう言った。朔は嘘も、お世辞も上手ではない。この言葉も本心から出ていて、思ったことを素直に言葉にしたのだ。
久苑は濁りのないその澄んだ瞳を見てすぐにそのことがわかった。そして、目を細めた。
「朔を見ていたら、なんとでもなりそうな気がしてきたよ。それに実は星見が苦手なんだ。中に入ろうか…冷えてきたし」
久苑はからりと笑って見せた。
そうね、と返事をして朔が部屋の中へと入って行った。
その姿を見ていた久苑はベランダの柵に寄りかかり天を仰いだ。
彼女は純粋すぎる。そして、純粋だから姉を助けることのみを考えている。僕らは…いや僕は本心として彼女を利用しようとしているだけだな。
久苑の顔は相も変わらず笑みが浮かんでいた。だがそれは自嘲を含みつつ、どこかうすら寒いものがあった。
僕も莉玖ももう戻れないところまで来ている。だから…かな…あんなにも眩しい笑顔を見ていられない。…思い出す…無力で子どもで…ただ、純粋にいたあのころを…
そして、この胸に消えず渦巻く黒い思いを…
燃え盛る炎と暗闇。そう、あの十年前のあの日の出来事と、あの自分自身に残された言葉が消えずに今も脳裏をよぎる…
恨むな…久苑
これが調律者という者だ
常に凪いだ心で
この世を見定め、人を救うのが陰陽師
俺は俺の仕事を…この天命を全うする
お前はお前の天命に従え
…だから俺は行くよ……
…お前は…生きろ
「久苑?」
ふいにかけられた朔の声にはっと回想の中から呼び戻された。
「なに?」
久苑は少しひきつった声しか出なかった。
「入らないの?」
「ごめん、ごめん。もう入るよ」
もたれていた柵から背中をはなして、にこりと朔に微笑んだ。
それならいいんだけど、と苦笑しながら朔はまた部屋の中へと顔を引っ込めた。
大きくため息をついて久苑は動き出した。さっきのは作り笑いだってすぐにわかっただろうな。そう思って苦笑した。
久苑は生きていく処世術として「笑顔」という武器を身につけていた。本心がわからないようにするために。彼の笑顔の裏を見抜けるのはほんの一部の人間…そう莉玖のような彼をよく知る人間にのみ。ただ、本質として温和な性格ではあるから説得力のある笑顔になるのだが…その心の奥は深い…
それにしても、あの時のことをこれほど鮮明に思い出したのは久しぶりだ。自分の中であの言葉が戒めとして働いていることがよくわかる…
久苑は思いをはせながら泣きそうな顔でぽつりとつぶやいた。
「…無理だよ…兄さん…」
ガラス戸に手をかけたときには久苑の顔にはいつもの穏やかな表情が戻っていた。
誰もがみな、心の中に黒い海が広がりそこに独りで立っていた
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