夜の静寂に君の声を

































 それは偶然の出来事だった。

黒い背景に赤い口が浮かんでは消える。そんな幻視(ヴィジョン)が見える。無数の声が聞こえてきた。
彼は頭を抱えた。耳をふさいでも意味はない。なぜならそれは脳に直接響くのだ。
彼が学校で気を抜くなんて失態をするのは、久しぶりだった。反響し、ガンガンと響く声に、発狂しそうになった。
彼は走って、走って、そこから逃げた。そうして気がつくと、今まで行ったことのなかった地にいた。彼はしまったと思った。そこは人の集まるところだった。
人の集まる所はよくない。そこにはいつも【声】が付きまとうからだ。
人のいない方いない方へと足は自然と向く。夏の日差しが彼の思考を停止させる。うざったいほどの蝉の鳴き声がこだまする中、地面がむき出しになった坂を上っていた。
そうして彼がボーッとしたまま、舗装のされていない道に足を踏み入れた時だ。
「どこ行くんだ!そっちは立ち入り禁止だぞ」
驚いて体が揺れる。彼の心臓が、耳元にあるかのようにその激しい鼓動が聞こえた。ゆっくりと彼が振り返ると、作業着の中年男性が暑そうにタオルで顔を拭(ぬぐ)っていた。
「こりゃいかんな。立て札が倒れておる」
男性が彼の横を通って、草むらに倒れていた『立ち入り禁止』と書かれた立て札を、土に突き刺した。
「……こっち、危ないんですか?」
彼は自分がそんなことを聞いていたことに驚いた。なぜなら、彼はいつも必要最低限の言葉しか発しないからだ。
「あぁ、以前に転落事故があってね。封鎖したんだ」
男性はまた汗を拭う。その日はとてもいい天気で、とても暑かった。
「せっかくこの先には見晴らしのいい東屋があったのに、もう五年ぐらいほったらかしだから、朽ち始めているだろうね」
男の言葉に彼の心臓がはねた。
男が舗装された道に戻って去っていく。
彼は立て札の先をじっと見た。心が躍るような感覚だった。今すぐ行ってみたい気がした。しかし、自制する。念には念を入れた方がいいと思い、彼は踵を返した。
陽炎に揺らめく景色。
ふと、先ほどの出来事が夏の日に起こる白昼夢だったのではないかと、彼は不安になって後ろを振り返った。そこには相変わらず舗装された道と、雑草で分かりにくくなった道があり、立ち入り禁止の立札が立っていた。
ほっと息をついて、彼は帰路につく。
今まで求めてきた場所を見つけたかもしれない高揚感で、足元が浮いたようだった。
彼はこの偶然から、一筋の光を見出すことになる。

青年が一人、暗い夜の山道を歩く。山道といっても、山をベースにした大きな森林公園の、あまり舗装のされていない道だ。たいして険しいわけではない。勾配が急なだけだ。
 彼は上まで登りきって、息を一つ吐く。腕にしたデジタル時計に目をやる。時間は午後九時二十三分。夏の夜なので、少し蒸し暑い。Tシャツの首を引っ張って汗をぬぐった。
青年には試してみたいことがあった。
勾配を上りきったところから、二つに道が分かれている。左の道は軽い舗装のされた正規の道。右の道は、立ち入り禁止の立札の立った雑草が生えている道。
彼は迷うことなく右の道を選び、木で簡単に作られた、段差のまばらな階段を下りた。
少し下りると目的地が見えてきた。道の途切れた崖の端に古くしなびた感じの東屋が一つ、ポツンとあった。嬉しそうに東屋に駆けて行った。
中は埃と葉っぱがたくさん落ちていて、薄汚れたテーブルと四脚の丸椅子があった。彼は手で椅子の汚れを適当に落とすと、腰をおろした。
噛み締めるように目をつぶって大きく息を吸った。張っていた気持ちを緩める。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり!何も聞こえない」
いつも大量の【声】に苛まれて、精神的に追い詰められていた。そのため、完全なる静寂を求めて今まで多くの場所を訪れた。
そして今、初めて何も聞こえない場所にたどり着いたのだ。
自然と頬を滴が伝う。とめどなく溢れ出るそれは、歓喜の涙。うつむいて両手で顔を覆った。
彼はその特異な能力を持つがために常に苦しんできた。
特殊触知能力(サイコメトリ)――彼は触れただけで人の心の声や思念、深層が見えてしまうし、聞こえてしまう。
彼は顔をあげてそのまま涙が止まるのをしばらく待った。
《誰?》
突然脳に直接響いた声に彼はビクッと肩を震わせて振り向いた。あまりの驚きに涙も止まる。
肩に置かれた手がぱっと離された。驚いた顔の少女がそこに立っていた。
「お、んな、のこ?」
彼女の持っていた懐中電灯の光に眩しそうに目を細め、その少女を見た。
暗がりでよく見えなかったが、小柄で幼い容姿の女の子だった。
まさかこんな時間にここに来る人間がいたなんて…。
彼は舌打ちをしたい気分だった。しかし、明らかに困った様子の女の子に対して悪態を見せては、余計に怯えさせてしまうかもしれない。
ここは、さっさと退散するか…。ため息をついて、おもむろに立ち上がった。
すると、彼女が焦った様子でバタバタと手を動かし、何か言いたげに口を開閉させながら目を泳がせた。
彼が怪訝そうに彼女を見ると、はっとして、携帯電話を取り出し急いで何かを打ち込む。バッと突きだされた画面には文章が書かれていた。
――驚かせてごめんなさい。私以外にこんな時間、ここに人がいると思ってなくて。
彼は思わず目を見開いた。
「君は…声が出ないのか?」
彼女はまた、携帯をカチカチといわせ、画面を向けた。
――はい
「そうか…」
困ったように頭を掻いて顔をそむけた。
――どうしてここに?
彼は向けられた画面を読んで、顔を曇らせた。
「それは……。いや、もういいよ。もう…来ないから」
ここに人が来るのならば、自分の求めていた静寂は得られない。彼はここにいても仕方がなかった。
投げやりな感じに顔を歪ませて、去ろうとした。その時、彼女が彼の腕をつかんだ。
《待って!》
彼は、思わず彼女の手を払いのけた。普段から声を聞かないために、人に触られることを拒絶してきた彼の条件反射だった。
だが、彼はそうしたことを思わず後悔した。彼の脳に響いた声は必死で、払いのけられた彼女の表情はどこか悲しそうだったからだ。
「あっ……ごめん…」
彼女はいくらか逡巡した後、また、携帯画面を見せた。
――こっちこそ、驚かせて…。だた、ここにいてもらっていいんです!
「どうして?」
眉をひそめて彼女を見つめた。必死にまた文字を打ち込む姿をただ見つめた。
触っていれば、こんな面倒なことしなくていいんだろうけど…でも……。
それでも彼は、初対面の人間に対して、その力を告白するような勇気を持ち合わせていなかった。
彼は人が嫌いだった。いつも彼の脳に聞こえる声は、心地よいものではなかったからだ。
彼の読み取る残留思念と触れた先から聞こえるその人の声は、常に本音。建前の裏に隠れた醜い感情。人の本心が醜くてそれが嫌で、そんな声が聞こえる自分自身も嫌で…。
だが不思議と、彼女のことを嫌に思わなかった。
だからだろう。彼女を置き去りにしてこの場を離れないでいる。いつもなら、ろくに口も開かずにここから無表情で立ち去っていた。なぜなのかは彼自身わからないことだった。
最初に聞こえた声が、あまりにも澄みきっていたからか。
そんなことを思っているうちに、彼女はまた画面を見せた。見せられた画面を見て、彼は硬直した。
――泣いていたから…。あなたもここに泣きに来たんだと思ったから。寂しいんじゃないのかなって思って…
彼女に泣いているところを見られたことにも焦ったが、なによりも、寂しいと感じ取られたことが恥ずかしかった。
「ちっ、違う。そんなのじゃ…ない。俺はただ……静かなところに来たかっただけだ!」
ただ何も聞こえない場所が欲しかった。寂しいなんて感情はもう忘れた。彼はそう思い込んでいた。
焦って、恥ずかしくて、片手で顔を覆って少し大きな声で言い返した。
それでもなぜかその場から離れられなかった。シンパシーとでも言おうか、彼女に何か感じる。その思いが彼をその場に縫い付けて動けなくしていた。
しばらく黙った後、ふと思い出したかのように彼は言った。
「あなたも?…君はここに泣きに来たのか?」
彼女は瞳を大きく見開いて、彼を見た。悲しそうに微笑んでこくりと頷く。
「寂しくて、か?」
目を伏せて彼女は俯いた。肯定しているようだった。
「君は…」
三度口を開きかけて彼はふと押し黙った。そして、一つ息をつくと彼女の目を見た。
「俺は高坂和也(こうさかかずや)。君の名前は?」
はっとして、彼女は携帯のボタンを押す。
――中園満〈ナカソノ ミチル〉
「中園さん…座ろうか」
満はほっとしたような笑みを浮かべて頷いた。
和也はもともと座っていた椅子に座り、満は斜めに向かい合うような形で腰をおろした。
テーブルには二人の持ってきたそれぞれの懐中電灯が置かれたので、東屋は明るく、互いの顔がようやくはっきりと見えた。
和也は、面長で切れ目、髪は黒く短かった。年齢はおそらく二十歳前後だろう。体つきもしっかりしていた。黒っぽいTシャツにジーパンというすっきりとした格好だ。
満は、茶色がかったくせ毛が肩にかかり、幼い顔つきに大きな鳶色の瞳が印象的だった。小柄で手足も細い。年齢は中学生くらいか。白のカットソーとスカートをはき、首には真夏だというのにストールをしていた。
「俺は静かであればそれでいい…」
そう言って、和也はふつりと黙り込み、テーブルに頬杖をついて目を伏せた。一見すると眠っているようだ。
安心したように息をついて、満は虚空を見つめた。
東屋から夜の森が風にざわりと揺れる様子が見える。緑のにおいが鼻をくすぐる。小高い所にあるため、夜でなければ景色はもっとはっきりきれいに見えただろう。
静かな空間。まるで世界からそこだけ切り取られたようだった。
不意に、満の目から止めどなく涙があふれ出た。止まらない涙が彼女の頬を濡らす。しかし、荒い呼吸音がするだけで泣き声は聞こえない。
ずっと心の内で我慢してきたことが一気に溢れ出た。
声が出ない……。
苦しくて辛くて、どれほど泣いても泣き声もろくに出ない。
彼女は声を奪われた。彼女自身了承したことだ。仕方のないことだと思う。
それでも抑えきれない思いがあった。
感情を伝える上で文字には限界があった。彼女は今それを痛感していた。
ここは昔、彼女が祖母に教えられた隠れ家だった。誰も知らない秘密の場所。
彼女は天井を仰いでぐっと歯噛みする。
辛いこと苦しいことがあるたびにここに来た。あまり人が来ない。だから思いっきり泣けた。
家では泣けなかった。寂しさがとめどなく溢れ出て、きっと独りに殺されてしまっただろうから。
ひとしきり泣くと彼女の下に祖母がやってきて帰ろうかと言ってくれる。ここは彼女にとって『優しい場所』だった。
六年前に祖母が他界してから、ここに訪れることはなくなっていた。だが、今はどうしても一人になりたかった。ここで泣きたかった。
まさか先客がいようとは満も思わなかった。人影を見つけたときには心臓が飛び上がるほど驚いた。
だが、なぜだか彼女は和也に対して関心を持った。
静寂を求めていたその背中に、惹きつけられるものがあった……。

二人は何かを感じていた。
だが、二人は何も言わない。
満はただ黙って涙を流し、和也はただ黙って風の音を聞いていた。
干渉しない。お互いに一人を、静寂を求めてここに来ていたのだから、ごく当たり前のことだ。初対面の人間が和気あいあいと話をできるわけもない。
でも、それでも二人はそこにいた。なぜかはわからない。
一人を求めていたのに、ここにもう一人いる。ただいてくれる。それだけで、思っていた以上の心地よさを感じていた。
和也は薄く片目をあけて、満を見た。彼女がただひたすら涙を流すさまを見て、鼓動が速くなるのを感じる。
その様があまりにも綺麗だったために、和也は息をのみ言葉を忘れた。
彼女のことを何も知らない。それでも、ただひしひしと伝わってくるのは、その無垢さだ。彼女は言うならば白紙。何も描かれていない真っ白なキャンバスのようだと思った。
満は自分の感情に正直だった。悲しい、寂しいという思いが前面にあふれ出ていた。
あれなら触らなくても何を思っているのかわかる……でも、何がそれほどまでに彼女を追い詰めているのだろう。
思わずそんなことを思ってしまう自分自身に、和也は戸惑いを覚えた。
人に関心を持つことなど今までなかったことだ。
人に触れることが嫌な彼は、人に関心を持たないようになっていった。
それが徐々に心が蝕むこととなっても、無関心でいる方がよほど楽に生きられた。
和也の感情を失っていた心が今、満の頬を伝う涙の滴を見ているだけで、鼓動を再び始めたように、熱くなっていく。
この想いは何だ?
戸惑いの中、時は静かにそして確実に過ぎていった。

満は枯れ果てるまで涙を流した。眼が痛いくらいだった。それでも、胸のうちの痛みが和らいだわけではなかった。
涙の跡を拭って腕時計を見た。
白くほっそりとした腕に着けられた繊細な時計の文字盤は午後十時半を少し過ぎたくらいを指していた。
気付かないうちに一時間もたっていた。
心地よい静けさが何も考えずにすむ空間を生み出してくれていたようだ。
さすがに、あまり遅くなりすぎて両親に家を抜け出していることがばれては厄介なことになる。
おもむろに立ち上がると和也を見やった。片肘をついて瞼を閉じている。寝ているのかと思い、音をたてないように満はその場を立ち去った。
東屋がぎりぎり見える所まで来たときもう一度振り返った。後ろ髪をひかれるような寂しさが、彼女にはあった。
明日来ても…きっと彼はいないのだろう……。
かぶりを振って彼女は暗い夜闇の中に消えていった。

和也は去りゆく彼女の後姿を見ていた。
小さなその体が闇に呑まれて消えると、ほっと息をついた。
こんなにも長い時間、他人と共にいる状況は久しぶりすぎて、異常なまでの緊張が走っていた。
和也の能力では残留思念が約二年以内のものであれば薄いものでも読み取れる。この東屋は風雨にさらされ、ここ数年は人も訪れていなかったため残留思念が全くなかった。
だから満に触れることさえしなければ、完全な静寂を和也は手に入れることができていたのだ。
気を張る必要などなかったのだが、「人」の存在が、和也にとっては体をこわばらせるのに十分な要素となっていた。
「まともに、人と会話したのっていつ以来だ」
虚空を見上げて記憶をまさぐる。
最近は家族ともろくに会話をしていなかった。
ごく一般の核家族。そんな家の生まれだからこそ、両親は和也の能力を煙たがり、二つ年下の弟ばかり可愛がっていた。
もともと居場所なんてなかった……だから、離れたんだ。
和也は高校進学と共に家を出た。毎年家に帰るのは正月だけだった。
今年でその高校も卒業し、大学へ行くか、就職するか…。どのみち、自立してもう家族とは合わなくなるだろうと予測していた。
人に触れること、自分の能力がばれることが怖くて高校に入ってからも誰ともかかわることなく過ごしていた。この間の失態はとても珍しいことだった。
自分で意識すれば、能力は抑えることができる。だから、普通に生活することもできた。だが、能力の抑制は精神的に疲れる。他のことなどにかまっている余裕なんて和也にはなかった。
だから、満との会話は本当に久しぶりの生身の会話だったのだ。
和也は満の座っていた位置に目をやった。
気になる。なぜだろう、彼女の涙のわけが知りたいという衝動に駆られた。
触って読み取れば確実にわかるだろう…でも、それは忌み嫌うこの能力を使ってしまうことになる。
人の思いを勝手にみるなど、卑怯だとも思うし、土足で踏み入っていいような内容ではないかもしれない。
そう思うのに、和也は立ち上がり満の座っていた椅子の前に歩み寄った。
心臓がやけに脈打つ。今まで意図してこの能力を使おうと思ったことがなかったためか。いつもフルオートだったのだ。必要な時に使えなかったらそれだけで笑える。
唾を一つ飲み込んで、右手をかざし、そっと触れた。
一瞬カメラのフラッシュのようなまばゆい光が脳に直接閃き、目がくらむ感覚に陥る。そのあとで早送りしているように満の記憶と感情が一気に流れ込んできた。

ザーザー……ザッザザー……

――……ガンです。それに……。
――…娘は……なんですか?
――……全摘………れば……。
《待ッテ、ソレジャア…》

――いいわね。
――いいよな。
――うん、いいよ。
《本当ハ、嫌ダ》

場面が回転する。深い…深い彼女の記憶に落ちていく感覚…。
小さな笑顔の女の子。笑顔の両親。でも女の子の笑顔はどこか泣きそうに見えた。

――今日も二人とも…仕事…遅く……いいね。
――……いい子で……困らせないで……。
――うん。
《聞キ分ケノ良過ギル子ドモ》

――みちるちゃんは我がまま言わない、いい子ね。

ブツン…景色が消える。ただ暗く寒い、閉ざされた黒い空間。

《言エバ良カッタ。
モットモット、コノ声デ。
私ノ本当ノ気持チ。
モットモット、伝ワラナクナル。
怖イ…寂シイ……。
ドウシテ……どうして!》

「ぐっ…!」
満の激しい慟哭と叫びを聞いた瞬間に和也は激しい頭痛に襲われ、触れていた椅子から手を引いた。
頭を左手で抑え、よろりと体がぐらついた。テーブルに右手をついて体を支える。
あまりにも強い思念が、脳に負担をかけたのだ。
荒い呼吸をしながら、和也は納得した。
そうか…そうだったんだ。だから、俺は……。
顔をあげた和也の瞳は確信と覚悟を宿していた。

彼女と俺は同じものを無くし…求めていたんだ。

次の晩。昨日とほぼ同時刻に満は東屋に座る昨日と同じ人影を見つけて驚いた。静寂を求めに来た和也が、また今日もここにいるとは思っていなかったのだ。
和也はゆっくりと振り返ると少しほっとした顔をした。
「よかった。今日も来てくれて…」
満は面食らってその場から動けずにいた。たくさん聞きたい言葉が胸の内にあふれていた。でも、言葉はすぐに形にできなかった。
「とりあえず…座ったら?」
和也は昨日に比べて随分と優しい声音をしていた。何がそれほどまでに彼を変えたのか。満は怪訝そうに顔をしかめながら、和也の向かいに座った。
「どうして…って思ってる?」
満は大きく縦に首を振った。表情は硬いままだ。
和也は口を開こうとしたがどうにも、上手く言葉にできない。
もごもごとまごついている姿を見て満は一層いぶかしんだ表情を作った。
言おうって決めてここに来ただろうが!自分自身を鼓舞して和也は大きく息を吸い、吐き出すとともに一気に言葉を出した。
「ごめん!」
突然の謝罪に満は目をしばたたかせた。キョトンとした顔が次の瞬間驚愕に変わった。
「君の過去を勝手に見てしまった…君の涙の訳を知りたくて……」
人の記憶に土足で踏み入っていいわけがない。誰しも知られたくない思いがそこにはある。それをただ、自分勝手な思いで覗き見てしまったことに和也は本当に後悔し、深々と頭を下げる。
もし、このことで満が不快に思い、もう二度と彼女と話せなくなったとしても、それでも一番にしなければならないことは謝ることだと和也は思った。

満は口をぽかんと開いて唖然としたままだった。彼女は混乱していた。
見るってどういうと?
知ったって何を?
涙の訳って…どうしてあなたが?
声が出たなら一気にまくしたてるように質問を浴びせることも可能なのだが、彼女は声が出ない。胸の内で思いを抱えてぐるぐると廻らせることしかできなかった。
「信じられないかもしれない、でも…俺は……」
ぐっと握りこぶしを作って俯く。もともと和也は人と話すことが得意ではない。だからこそ余計に気負ってしまって、上手く言葉にできなかった。
すっと携帯の画面が目前に差し出された。
――あなたは一体何者なんですか?
和也はバッと顔を上げて、真剣な瞳をした満を見た。
訊きたいことはたくさんある。でも今はそれだけを知りたいと瞳が言っていた。
「俺は…触れたものの最も強い思念を読み取ることができる力を持っている…。俗に言う、触知能力(サイコメトリ)だ」
サイコメトリ?満は予想外の返答に思考が停止してしまった。
今まで本の中でしか聞いたことのない言葉が、彼の口からさらりと出されたのだ。
「嘘だって思ってるだろ」
今まで彼の言葉をそのまま信じた人間なんて一人もいなかった。そして、信じさせるためにした行為によって、いつもきまって嫌悪と恐怖の表情を人は見せた。
「君のかかった病の名は喉頭(こうとう)ガン。しかも声門上ガンのT2だ。完治のために、君は声帯ごと喉頭の全摘出をして声を失った…何か間違いは?」
満は目を大きく見開いて、その瞳いっぱいに和也を映した。
声の出ない口を開閉させた。
どうして?と形作られたその唇を見て和也は自嘲した。
「ただ…知りたくて……君が帰った後君の座っていたところに触れて何を思っていたか、残っている声を聞いたんだ…」
満は心臓が激しく脈打つのを感じていた。
私の思っていることがわかるの?声を聞いたって…まさか……
「俺には君の声が聞こえるよ。とても澄んだ高くて…綺麗な声だ」
その一言に満の鼓動が大きく跳ねた。早鐘のように耳元で音が聞こえる。
おずおずと両手を差し出して、和也に触ろうとした。
和也が右手を差し出すと、その手を両手で包むようにして握った。
《き、こえ…る?》
「聞こえてる」
和也の優しい笑みに、満はぼろぼろと瞳から大粒の涙をこぼした。
《私の声…聞こえるの?》
「聞こえてるよ」
何度でも言ってあげよう。彼女が失ったものを、俺が掬いあげることができるのなら…。そう、彼女は俺のようになってはいけない。
満の涙は音を立ててテーブルの上に落ちる。
《うわあぁぁぁあああ!》
痛いほどの彼女の泣き声。
ただそれは和也にしか聞こえない【声】。
和也はただ目を伏せて聞いていた。
《いっぱい…話したいの。でも、全部…伝わらない!》

文字はどれほどの感情をこめてもどこか無機質だった。
彼女が人に声をかけるのも何をするのもまず思いを整理しなくてはいけなかった。
自分の感情のまま、自分の思ったことを相手にも感じ取ってほしい。
しかし、その満の思いはすべて伝わらない。
彼女は伝える五感である聴覚を病に奪われたのだ。
声のトーン。口と一緒に動く表情の変化。音質で変化する感情の程度。笑い、怒り、泣く…声が出なければ無機質になってしまう思いがたくさんあった。
今まで満は伝えることを押さえてきた過去を持っていた。
失って初めて気づいた自分の持つ声の力。もっと伝えればよかった。あの声で自分の本当の気持ちを聞いてほしかった。そして知って欲しかった。
今更、願ってしまった。伝えたい、伝わって欲しいと。
でも伝わらない。彼女の全身から発するその心≠聞くことはもうできなくなってしまっていたのだ。
内にこもった本音と後悔。どこにも吐き出すことができずに、満はただ一人で泣くことしかできなかった…。

満は和也を初めて見た瞬間に、その本能が悟ったのだろうか。
彼は理解してくれると、彼女は感じ取ったのだろうか。
《私はただすがりたかった。彼のことは知らない。自分が孤独に殺されたくなかった。それだけ。彼を利用している》
満の胸の内はすべて和也に聞こえていた。泣き声の裏に聞こえる彼女の本音。
「うん。いいんだ。俺は君に俺と同じになって欲しくないだけだから…」
満ははっと顔をあげた。涙に濡れ真っ赤にはらした目で和也を見つめた。
和也は今にも泣きそうな顔で微笑んだ。
「自分の心に嘘をついて、感情に鈍感になって、自分のことを理解してもらえない寂しさに苦しんで、心を腐らせるなんて…心を殺すなんてことは、したらだめだ」
《難しくて…よくわからない》
満は困ったように笑っていた。

和也は自分のことを理解してもらうことを諦めた。そして、ゆっくりと心を殺していった。
嘘をついたのだ。自分は寂しくなんかないと。
だが、本当は和也も叫びたかった。ただ聴いてほしかった。
全身で伝えた言葉を感じて欲しかった…。
ただ、その手を取って欲しかった。
伝える五感である触覚を触知能力(サイコメトリ)に奪われた。
触れることで伝わる些細な心の動き。たとえばそれは皮膚を伝わる鼓動だったり、隠した恐怖心が伝える震えだったりする。
和也の心の声は満に聞こえない。だが、満は祈るように握る手の力を強めた。
《もしあなたに触れることで、あなたの抱える寂しさが薄らいでいくというのなら私は…触れていたい》
満はあの孤独を抱え込んだ寂しい背中を見た時に泣きたいほどの衝動を感じた。
和也が『独り』に殺されたとわかったのだ。それは満も、嫌というほど寂しさを痛感していたから感じられた衝動だった。

和也は暖かいと感じていた。右手を握る満の手は確かに暖かくて、血の通った生きた人の手だった。
この忌むべき能力が、もしかしたら彼女の心を掬い上げてくれるんじゃないかと和也は本気で思った。
そして彼女の声が、体温が、自分の心を掬い上げてくれるのではないかと思った。
その澄んだ声が彼の心を潤してくれる。
【声】を閉ざしてきた彼女の、本当の気持ちはとても純粋で無垢だった。
嬉しいも悲しいも好きも嫌いもすべて、正直に真っ直ぐに見せてくれる。
でも綺麗なだけの人間じゃない。垣間見た心に闇を抱えていることが和也はわかった。脳の奥にそっと囁くようにそんな心も見え隠れしていた。
でも…それでも、満はあまりにも綺麗な涙を流した。

ねぇ、聞いて。私の声を…
あぁ、与えてくれ。俺に温もりを…

欠け落ちた心に……その夜の静寂(しじま)に……互いにしか聞こえない声を、聞かせて。

〈fin〉





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