――良く覚えておいでなさい。一度だけよ。あなたが本当に困った時、その一度だけ……
























雪 原 に 咲 く

































 真っ白なキャンバスに木炭が滑る小気味よい音が部屋に響く。外は雪が積もり、キャンバスよりも白く柔らかな肌をさらしている。雪が外の音を吸収し夜陰に静寂が横たわる。
部屋の中で木炭を滑らせる青年は意識を木炭に移し、キャンバスを睨むように見つめて、周囲の気配など感じ取れないほどに集中していた。
ザクリ…ザクリ…と、雪の中を歩く音が夜の静寂を破る。分厚いコートを羽織った少女の姿が、降りしきる雪の中で揺らめく。
雪の中を歩く少女は自身の手足がかじかんで痛いことも忘れ、明かりの洩れる小屋を目指した。
小屋の扉を前にして自らの体に積った雪を払い、フードを外した。少女は頬と鼻を少し赤くしていた。かじかんだ手で二度扉をノックしゆっくりと開いた。
扉が開かれると、それまで中で一心不乱にキャンパスに向かっていた青年も首を回し、顔を向けてきた。
「まったく、君も酔狂だね…」
ため息をついて青年は木炭を置いた。
そんな彼の呆れたような様を見ながら、少女は亜麻色の瞳に優しい色を灯し微笑する。瞳と同色の長い髪を一つに束ね肩からたらしていた。
「こんばんは、シャル…調子はいかが?」
「メルティア……君のせいで手が止まったよ」
「あら、私のことなど気にしないで。どうぞ描いて」
シャルは何か言いたげに眉をひそめてからメルティアに背を向けてキャンパスへと向かった。また部屋に木炭の滑る音が鳴る。
その姿を見てメルティアは微笑したまま彼のそばへと近づいた。
キャンバスの横にある暖炉には、こうこうと炎が燃えていた。
炎の方にかじかんだ手足を向け、シャルの座る椅子の横にメルティアは膝を抱えて床に腰をおろした。
不意に彼女の視界が暗くなる。彼女の頭上から毛布が降ってきたのだ。それはシャルが掛けていた膝掛だった。
驚いて顔をシャルの方へ向けると、彼は相変わらずの仏頂面だった。クスリと一つ笑ってメルティアは膝掛にくるまり、シャルの描く絵を見つめた。
キャンバスに広がっているのは雪原。木炭で描かれた下書きだけでもその奥行きと濃淡が見える。
「この絵好きよ…」
メルティアはポツリと呟いてシャルの椅子に頭をもたれかけた。
「君はどの絵を見てもそう言うじゃないか」
シャルは深い藍色の瞳を細めて遠くから眺めるようにキャンバス全体を見る。
「この絵が一番いいわ。深い雪…とても綺麗ね。でも…」
メルティアは言いかけて口をつぐんだ。そろりとシャルを見上げる。彼もまたメルティアの方を見ていた。
「でも…、なんだ?」
「あなたは雪が嫌いでなかった?」
「あぁ、嫌いだ」
「じゃあ、なぜ?」
メルティアの問いにシャルは言葉を探していた。眉間に深くしわを刻んでため息を一つ吐いた。そして、また木炭を滑らせた。
「君は、雪が好きだろう…」
思いもしなかった言葉にメルティアは事態が飲み込めず、瞬きをした。そして、一呼吸置いて満面の笑みを浮かべた。彼女は来月、十五の誕生日を迎える。
「覚えていてくれたのは初めてじゃない?」
その問いには彼は答えなかった。
「ねぇ、来月はアップルパイを焼いて持ってくるから一緒にお祝いしてね」
シャルは困ったように笑った。彼が笑うのは本当に珍しい。
「町長の娘がこんな嫌われ者の所に、誕生日に来られるわけがない」
「そうね…だからまた夜にこっそり来るわ」
彼女はそれからずっと黙って、彼が雪原を描く様を飽きることなく見ていた。

シャルの母親は魔女だった。それゆえに、町の者たちから恐れられて町はずれの小高い丘の上の小屋にシャルと二人でひっそりと暮らしていた。この町は冬が長い。丘の上は雪が降り始めると隔離された空間になった。
だが、彼の母親はとても優秀な魔女でありとても優しい心根の持ち主だった。乞われて、薬の調合をしては町の人に密やかに渡していた。しかし、彼女自身の体が弱かったこともあり、シャルが幼いうちに儚くも亡くなっていた。
シャルは母親のように町の人間に乞われても薬の調合はできなかった。そうなると町の人間はとたんに彼の事を邪魔者扱いし始めた。もともと人付き合いの下手なシャルは町から孤立し、小屋にこもりっきりになっていた。
メルティアは年端もいかない頃に、町の子どもたちと度胸試しを丘にしに行った。
『丘に住む魔女の息子はとても怖くて、人を薬の実験に使う』などと、いつのころからか子どもの間でくだらない噂がはやった。子どもたちは徒党を組み勇んで丘へと登っていった。ちょうど、短い夏の終りの頃であった。
丘の小屋まで来て、子どもたちは二手にわかれた。メルティアは裏の窓から中を覗くグループだった。
彼女が窓から部屋の中を覗くと暖炉の上に絵が立てかけてあった。はっと息をのむほどに綺麗だった。吸い込まれるようにメルティアは絵を見つめた。
扉の方からなにやら騒ぎ声が聞こえるが、メルティアはそんなことよりもその絵を見ていたかった。その、紫桃色で青みを帯びた花が描かれている絵を。
「何をしている!」
窓が突然開いて、つま先立ちで覗いていたメルティアはドタッと尻もちをついた。周りにいた子どもたちは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げてしまった。
メルティアはそっと顔をあげて見上げると、機嫌が悪そうに柳眉を釣り上げた少年がいた。透き通った藍色の瞳がとても綺麗だと彼女は感じた。
「何て名前のお花?」
メルティアは見上げたままに彼に問うた。彼は面食らったように彼女の顔をまじまじと見た。
「何を言っているんだ?」
「あの絵に描かれたお花は何て名前なの?」
シャルは彼女の扱いに困ったのか、顔をしかめてぼそりと言った。
「…リコリス・スプリンゲリー…」
「とても綺麗ね。私、あれがとても好きよ」
柔らかに微笑んで彼女は真っ直ぐにシャルの瞳を見た。シャルは毒気を抜かれたように苦笑して、早くお帰りと囁いた。
「また来るわ」
彼女はそう言って丘を下った。
それからメルティアは何度も小屋へとやってきた。
最初は無愛想に中にも入れなかったシャルも、窓の外から冬でも眺めようとするメルティアの根気に負けて、自分が描く絵を、中に入って見ることをいつからか許していた。
彼女は時間を見つけては、スコーンを焼いたと言って持って来たり、今日はベリーをたくさんいただいたからとバスケットいっぱいのベリーを持ってきたりしては彼の横に座って絵を見ていた。
しかし、異端者の彼の下に彼女が行くことを彼の両親は快く思っていなかった。メルティアは町の名士の娘だった。それから、大きくなるにつれて、彼女は人の目を盗んで夜遅くに訪れることが多くなった。
シャルの所にはたまに隣町の画商が来た。とても愛想のいい老紳士。シャルの絵を気に入って、彼の母がまだ存命の時から彼の元へ通いシャルの絵の斡旋をしていた。
「不思議なものね…。町の皆はあなたがこんなにも美しい絵を描くことを知らずに、異端者と呼ぶ。それなのに隣町では人気の画家なのだから」
いつだったか残念そうにメルティアは言った。もっとシャルの事をみんなが知ればこんな冷たい処遇は受けないのにと。
「知っていようと認めてはもらえないさ。魔女の血を引いているから小細工をしていると勘繰られる」
「でも、あなたは言ったわ。あなたが魔法を仕えるのは一回だけだと。だから、あなたの絵はあなた自身の魅力だと私は思うの」
シャルは魔力が弱かった。ほんの一回魔法を使っただけでその魔力はすべてなくなってしまうと母親からは言われていた。だから、彼は使う時を見誤ってはいけないと言われた。そのことを彼自身もよく心得ていたし、彼は生涯、魔法は使わないと心に誓っていた。
それは、魔法を使って町の人間にいいように利用されていた母の姿を見て思ったことだった。
だから彼の絵は、ただ純粋に天才的に美しいとしか言いようがなかった。

雪解けはまだ遠い。それでも、雪のやんだ雲間から日の光りの差し込む日が増えてきたそんな日々の中、もうすぐメルティアの誕生日が来ようとしていた。
シャルは一心に絵の具の乗った愛用の絵筆を走らせる。雪原に鮮やかに色を付けていく。
白をベースにしながらも複雑に絡み合う色。
濃紺の夜空に瞬く白い星たちと、白く覆われながらも悠然と構え、ところどころに深緑の見える大樹。そして広がる雪原はただ白いだけでなく、青と灰を美しくも大胆に使い、陰影を浮き立たせ奥行きある広々とした空間を演出している。
いつか、私にも絵を描いてくれない?
そう、朗らかに笑って彼女がシャルに頼んだのはいつのことだっただろう。毎年訪れる彼女の誕生日を忘れたことはなかった。しかし、彼にはどうすることもできなかった。
彼は人が嫌いだった。彼と母を迫害した町の人間のことを考えると、どうしても憎しみがわいた。
母を頼っておきながらその母が病床についた時、町の人間はだれ一人として助けてはくれなかった。
町医は、魔女は見れないと一蹴した。せめて良い食事でもと思ったが、町の者は皆『魔女の息子』には食料を売ってはくれなかった。わざわざ自分達を知らない隣町まで出かける日々。どんなに辛く寂しい気持ちだったかと思うと、黒くおぞましい思いが何度も生まれた。
ただ、メルティアは彼自身を見てくれた。彼女は彼の母と同じく彼の描く絵を愛してくれた。独りの寂しさからすくい上げてくれた。
ずっと彼女に恩返しがしたかった。でも、不器用な彼はどうしていいかわからなかった。
ずいぶんかかったが、ようやく決心がつき彼は彼女のための絵を描き始めた。彼女の愛する雪原。白くて潔い雪はとても綺麗だと彼女は言った。
もうすぐ彼女のための絵は完成する。
笑みが少しこぼれた。
ふと、筆が止まった。そう言えばしばらく彼女の姿を見ない。彼女は来るなと言っても時間を見つけては週に一度は来ていたのに、もうすぐ最後に会ってから二週間が過ぎようとしていた。
そこに突然、乱暴に扉を開く音がした。振り返ってみると、いく人もの町の人間がいた。
「シャルルフィオ・レ・ゾラディエートだな」
久しぶりに彼は真名を呼ばれた。
「何の御用ですか?」
「君には即刻ここから消えてもらいたい。我々も手荒なことはしたくないので、君が自主的にここから遠くに行ってくれるとありがたい」
先頭に立つ男が冷たく言い放った。シャルは眉をひそめて努めて平静に受け答えをした。
「私が何をしたというのでしょう。ただひっそりとこの地で絵を描くことすらも罪だと言いますか?」
「私の娘が君のことを気に入っている。だがね、娘は十五の誕生日に婚約を結ぶのだよ。君のような異端者への思いを断ち切っておきたい」
「メルティアの……そうですか…。ですが私は動く気が毛頭ありません」
シャルは立ち上がってメルティアの父親である町長を見かえした。
まだ、絵を描き終えていない。彼女に渡していない。今ここで何も言わずに彼女の前から姿を消すことなどできなかった。
「どうあっても私の言うことがきけないか」
町長は声音を低くしてシャルを睨みつけた。後ろにいる男たちも嫌悪の眼差しを彼に送る。
「えぇ。私にはしなくてはいけないことがある」
「ならば、この場をなくしてしまえばいい」
町長が言うと男が二人シャルの両脇を固めて表へと引きずっていく。
「なっ、何をする!」
こもりっぱなしであったシャルに男二人を振り払う力はなく、そのまま小屋の外の雪に叩きつけられた。
「やりなさい」
町長は淡々と男たちに指示を出した。
男たちは、手に持った松明の炎を小屋に移した。
「やめろ!」
シャルは叫びながら火を消しに行こうとしたが、男たちに阻まれて先に進めない。したたかに殴られては前に進もうとあがくも火は小屋を包んでいってしまう。
「中には…中には……!」
中にはメルティアに渡す絵があるのだ。それだけではない彼が今まで書いてきた絵も、絵を描く道具もすべてがあそこに詰まっている。だが、どれだけ叫んでも届きはしなかった。
どす黒い感情が彼の中でこみ上げてくる。どうしてこんな目に合わなくてはならないのか…。
彼の中でもたげた負の感情が、彼の中の魔力を高ぶらせていく。
突然男たちが悲鳴にも似た声を上げた。
シャルは何事かと雪にうつぶせていた顔をあげた。
目に飛び込んできたのは燃え盛る炎の中へ飛び込んでいくメルティアの姿だった。

メルティアは燃え盛る小屋の中で必死に絵を探した。一目散に暖炉の横のキャンバスに彼女は駆けより雪原の絵を手にした。そして暖炉の上に飾られていたリコリスの絵を手に取った。
踵を返して彼女は出口へと向かおうとした時に、はっと筆のことを思い出した。
シャルの筆!とても大切な特別な筆!
シャルの絵筆は、彼の母親が彼のために与えてくれた形見のようなものだった。その絵筆をシャルはとても大切にしていた。
燃える炎の中、必死で手を伸ばしてメルティアは筆をつかんだ。
そうして、窓を破って外へ飛び出した。
外の雪がメルティアを優しく受け止めた。げほげほと黒煙を吸いこんでせき込む。二枚の絵を抱き、その手には一本の絵筆がしっかりと握られていた。
「何をしているメルティア!」
父親の町長が怒気をはらんだ声で彼女をひっつかんだ。二枚の絵が雪の上に落ちる。
「どうやって抜け出してきた!」
「お父様、私、お友達がたくさんいるのよ」
彼女は口元を歪めて蔑むように父親を見た。そして、父の手を打ち払うと悲壮な顔でシャルの方へ駆け、彼を抱きしめた。
「シャル…あぁ、なんてこと。本当にごめんなさい…」
シャルは呆気に取られていたが、彼女の煤で汚れ無数にある火傷跡を見てみるみる顔を歪めた。
「何て無茶を…君は馬鹿か!」
彼女の握り締めた絵筆を見て、泣きそうな気分になった。
「こんな絵など!」
はっとして二人は声の方へ目をやると怒りに満ちた父親が二枚の絵に火を放っていた。
「なんて事を!」
メルティアは狼狽して、すぐに駆けつけるが火が絵を燃やしてしまう。メルティアは素手で火を抑えにかかった。
「うっ、ぐあぁ…」
肉の焼け焦げる匂いがした。メルティアの手を焼きつつも火が消えていく。
「メルティア!」
シャルの悲痛な叫び声が上がる。火を放った父親は娘の行動に青ざめ腰を抜かしてその地に座り込んだ。周囲の男たちは呆然と見ていることしかできなかった。
シャルは痛む体を押して彼女のそばへと走った。メルティアは痛みにもだえていた。真っ赤に焼けただれた両手は見るも無残な姿をしていた。
「どうして!」
シャルは、彼女を抱きかかえ、メルティアの目を見て涙を流した。彼女は微笑んでいた。そうして、父親と周囲の人々に目をやった。
「何て事をするの。シャルが何をしたというの…彼を魔女の血を引く異端者と言うけれど、鏡を御覧なさい!あなたたちの方がよほど魔者の顔をしている!」
彼女の声に皆が圧倒される。
「この絵を見ればいいわ…見ないから燃やせるのよ。こんなにも美しい…」
愛おしむかのような声。彼女は、焼けずに残った雪原の絵に手を伸ばした。シャルが彼女を抱きかかえたまま絵をとってやった。
人々は初めてシャルの絵をまじまじと見る。
息ができないほどの衝撃が胸をつく思いがした。皆一様に言葉をなくし、吸い込まれるようにその荘厳な雪原の絵を見つめた。
見るものを虜にするように強い魅力。

そう……それは人が芸術に込めた想いの魔力

シャルはメルティアを抱えたまま泣いていた。こんなにも彼女は彼のことを大切に思っていてくれた。彼の大切なものを守ろうとしてくれた。
大嫌いだった人。でも、大切なものもまた人だった。
彼女の痛みに歪む顔を見る。脂汗が浮かんでは流れていく。
今、シャルにできることは……?
彼の目に半分ほど焼け焦げて黒い煤の付いたリコリスの絵が映る。
リコリスは母が好きだった花だ。病床の母に描いたリコリスの絵が母の言葉を思い出させる。

――本当に困った時、その一度だけ…あなたの中に眠る魔の力を使いなさい。それはきっと、優しい花を咲かせるから。

シャルはそっとメルティアの焼け爛れた両手に手を重ねた。そうして、藍色の瞳を細め、慈しむように願った。
メルティアは目を見張った。
彼女の手を包むシャルの手から光が洩れる。
七色に輝く光はまるで大輪の花が開くように彼女を包んだ。彼女の両手がたちまちに元の白い肌に変わっていく。
周囲の者も愕然としてその様を見続けた。
光が消えると、メルティアの両手は元通りになっていた。
「シャル…あなたって人はたった一度の魔法を私なんかに使うなんて…」
メルティアの声は震えていた。もっとこれから使うべき時が来るだろうに。彼女が原因で引き起こした今回の出来事のせいで、シャルに家と頼るべき最後の魔法まで失わせてしまった。そのことにメルティアはどう言葉をかけていいかわからなかった。
「いいんだよ、これで」
「でも…」
するとシャルは嬉しそうに笑った。そう、それは彼女に初めて見せた心からの微笑み。
「君の両手がなかったら、いったい誰が私にアップルパイを焼いてくれるというのだ?」
メルティアはシャルの腕の中で泣いて、泣いて、泣き続けた。

残った一本の絵筆でシャルは雪原の絵を描き上げた。そこには初めはなかった光の花が一輪咲き誇っていた。

〈fin〉





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