皓白の心に漆黒の雨が降る



 僕は自分がきれいな人間だと思ったことはない。むしろ、黒衣を纏うべきは自分だと思う。
僕は確かに純粋だった。でも、だからこそ染まりやすく、壊れやすかった。
僕の心は歪で複雑怪奇。
だが、ほとんどの人間はその本質には気づきはしない。
なぜなら常に「笑顔」という仮面をつけているから……

 戦いの終わった次の日。
僕は、誠一さんに電話をかけた。情けないことに、かけた理由は誠一さんと春香の安否確認ではなく、自身の復讐のためだった。
 不安でなかったと言えば嘘になる。ただ、そこまで生死にこだわっていなかった。僕なんかよりもよっぽど莉玖の方が生死にはうるさい。
 毎日どこかで誰かが死んでいる。そんな0区の日々の中で、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。たとえそれが親しい者でも心の衝撃が薄くなってしまった。
 それは、きっと十年前に失った者の痛みが大きすぎて、ほかの痛みがあまり感じられないからだろう。
 だがまぁ、とりあえず…
「二人とも無事で何よりです」
『逃亡者生活は無事とは言い難いな』
 電話の向こうから聞こえる誠一さんの声は苦笑交じりだ。
「とにかく、大本は僕らが叩いたので、もう追手も行かなくなると思います」
『そうか。いつ戻る?』
「莉玖の意識が回復したらできるだけ早く帰ろうかと思っています…」
 少しだけ、寂しい気持がした。やはり、一区は懐かしい。
『それで、俺への用はそれだけか?』
 誠一さんの声にため息が混じった気がする。まぁ、十年近く一緒に住んでいれば、僕の思考も読めるのだろう。
「あのデータ使いたいんです」
『……わかった。外部パソコンからの接続パスワードは……』
 僕は誠一さんの言うパスワードをメモすると、思わず口元が緩んだ。だが、努めて平静を装った。
「ありがとうございます」
『……お前、大丈夫か?』
この言葉は適切ではないと思った。きっと、僕の少し沈んだ感じの声を聞いて言ったのだろう。だが実際にはこの浮かれた気持ちを抑えつけようと、そう言った声で返事をしたのだ。きっと、今僕に尋ねるべき言葉は「正気か?」だ。
「大丈夫です。そっちこそ、気を付けて下さいね」
 条件反射のように笑顔を作って僕は答えた。
「じゃあ、これで」
電話を切って、廊下の壁にもたれ一息つく。
「いつから、そんな風に笑うようになったの?」
 心配そうな表情でそう聞いてきたのは旺だった。だませない人間というのは本当にいるものだ。僕は苦笑しながら、頭をかいた。
「すごいなぁ。よくわかったね」
「久苑のことをよく知る人間ならば、誰でもそうよ」
 確かにそうだ。莉玖も僕の心の動きには敏感で、すぐにわかるらしい。心配していないようでいて、かなり気を使ってくれているのがよくわかる。
 今はまだ眠ったままだが。
「莉玖はいいの?」
 旺は昨日からずっと莉玖のそばを離れずに治癒を行っていた。全く、十年たってもその気持ちは変わっていないようだ。蒼真の事が少し不憫に思えた。
「朔がね、このままじゃ私も倒れるからって…代わってくれたの」
 旺は困ったような顔をした。
 僕も思わず苦笑する。どうやら、同じことを感じ取っていたようだ。
あの渦の中で何があったのかは知らないが、どうやら朔もついに莉玖の本質が見えてしまったらしい。本人は無自覚でも、ずいぶんと莉玖に好意的な目をしている。
天宮が暮葉に惹かれるのは陰陽から見ても自然なことなのかもしれないが、これ以上ややこしくしてどうすると、今は眠ったままの親友に言ってやりたい。
お茶にしようと言って、僕に居間に座るように促し、旺は急須を取りに行った。
旺の離れは広い。部屋が二つにトイレもある。電磁調理器もあるので、あまり生活に困らない。無いのは風呂だけだ。まぁ、母屋まで数mしかないが。
居間に縁側があって、庭につながっている。庭の奥に少しだけ塀の崩れたところがある。昔はあそこから何度も侵入したものだ。
遠い日のことを思うと、自然と笑みが漏れる。
「どうしたの?」
 急須と湯呑を二つ持った旺が、面白そうに僕の顔を見た。
「いやね、きっともう、あの抜け穴からは入って来られないだろうなって思ってさ」
 旺から湯呑を受け取って、お茶を注いでもらう。
「そうかしら?きっとまだ久苑は大丈夫よ」
「嫌味として受け取ってもいいのかな?」
「いいえ、からかいとして受け取ってほしいわ」
 いたずらっ子のような微笑みを向けられては、さすがの僕も笑うしかない。
 ひとしきり、二人で笑うと旺はぽつりと呟いた。
「……生きててよかった」
 僕は二の句が継げなかった。その顔が心底安心したというものだったらだ。
「どうしても、信じられなかった。あなたたちが死んだって聞かされても。十年たっても…きっと生きている。生きているなら…」
「0区」
僕は旺の言葉を継いでいった。
「的確な予想だったと思うよ」
僕は静かに目を伏せた。口調が少し冷たいのは逃げ落ちる時のことを思い出したから。普段なら笑って返すのだが、相手は旺だ。気を使う必要も、本心を隠す必要もがなかった。
「ずっと、言いたかったの……ごめんなさい」
 その謝罪の言葉に僕は少し驚いた。思いがけない言葉だった。
「十年前に貴方達を切り捨てたこと、本当に申し訳ないと思っています」
 旺は深く頭を下げた。体が小刻みに震えていた。悔しいのか、恥ずかしいのか…いや、この場合はおそらく怖いのだろう。そう読み取って、僕は落ち着いた優しい声音で話した。
「旺が謝る必要はないよ。僕らは子どもだった」
 そう…子どもだった。無力で、無知で…大人を知らなさすぎた。
「それに、僕は天宮に対して憤りを感じていない」
 僕が憤りを感じるのはあいつらだ。
「僕も莉玖も自分たちの方法で十年前のけりをつけようって思っているし、莉玖はもう着けたよ」
 旺は顔を上げて僕の目を見て聞いていた。
「蒼真のことは、莉玖らしく決着をつけた。きっと、蒼真にとって一番つらい選択をされてしまったんだと思う」
旺は何も言わなかった。旺もまた、蒼真に対して何らかの決着をつけなくてはならない。どうやら、心はきまっているようだった。これは、僕が口を挟むことではない。
「僕も着けるよ」
 僕は先ほど誠一さんから聞いたパスワードの書かれたメモを出した。
「これは?」
「水知家に関するデータの入ったバンクへのパスワード。水知家も、いろいろしてきてるからね」
 僕は目を細めてメモを見る。これは鍵だ。
「それって……」
 旺は僕が言った意味をおおよそ理解したのか、困ったといわんばかりの顔をした。
「社会的に分家の連中を抹殺する」
 僕は満面の笑みを浮かべた。本当に楽しくて仕方がない。
 旺は目をしばたたかせたかと思うと急に噴き出した。
「あははっ!久苑…性格が余計に悪くなったわね」
 ここは普通引くところだと思うが、どうやら、旺にとっては面白かったようだ。嫌味というにはあまりにも率直な感想。しかも、このセリフを言われるのは二度目だった。
「蒼真にも、同じことを言われたよ」
 苦虫をかみつぶしたような顔をして僕は投げやりな感じに言った。
 へぇ、と面白そうに旺は聞き返してきた。
 そう、あいつを叩きのめした後だ。あの時の情景が蘇る。

 あいつをぶちのめして、捨て台詞もはいたが、憤懣やる方のない僕の目に入ってきたのは、瀕死の重傷を負って回復しきっていない蒼真が無茶にも必死に走ろうとしている姿だった。
 グラッと体勢を崩したのを見て慌てて僕はその体を支えた。
「無茶するなぁ」
 全く莉玖といい蒼真といい、どうして僕の周りの人間は自分の身を顧みてはくれないのか。心配する人間というか、世話を焼く人間の身にもなって欲しい。
「…悪い。だが、旺様が!」
旺至上主義は健在だな。全く面倒な。
「大丈夫だよ。莉玖が追ってるんだろ?死んでも守るだろうさ」
 蒼真は渋い顔をした。その心中が複雑なのはわからなくもない。最も大切な旺を自分の手で守れなくて、しかもそれをライバルともいえる莉玖に任せなくてはいけないのだから。
「僕が手を貸すよ」
 このまま蒼真を放置しておくわけにもいかないので、肩を貸して、一緒に行くことにする。
大きな鬼力の波動はずっと上の方にある。おそらく屋上だ。エレベータを探して、乗り込んだ。
動き出すエレベータの壁に背をつけて、ズリズリと座り込んだ。大きく息を吐く。さすがの僕も疲労が大きかった。霊力も無限ではない。さっきの戦いで五行操術を使ったので、その減りが激しかった。
しかも、手を抜くどころか、圧倒的なまでの力の差を見せつけてやりたかった。連中と僕や兄さんが同じ陰陽師だと思われたくなかったからだ。
「容赦がなかったな」
 蒼真もそれを感じ取ったのか話しかけてきた。
「あのお前があそこまでするとは俺も思わなかった」
 確かに、十年前の僕はあんなことはできなかっただろう。人を傷つけることが恐ろしくてたまらなかったのだから。今も苦手だ。陰陽道の本道から外れていることを本当はしたくない。でも…
「あの人達は特別かな」
 自嘲するような表情で僕は言った。
「すべてを奪う、か…それほどまでに憎いか…」
 今度は、蒼真の方が自嘲したようだった。自分のしたことを重ねたのだろう。
「憎いよ…肉親だからこそ、兄さんの地位が欲しいがためだけに陰陽師のプライドを、水知家を汚した奴らを許すことなんて無理だ」
 僕は冷笑を浮かべた。隠す必要もない。相手は蒼真なのだから。
 殺すことはできない。それは、水知の誇りを汚すことになる。殺さずの陰陽道を貫くことが僕の道だ。連中とは違う。でも、やり場のない憤りはどうすることもできなかった。
 恨むなと兄さんは言った。確かに、陰陽師は何かに偏ってはいけない。だから、神官家にも冥官家にも肩入れはしない。そして、白鷺にさえも何の感情も抱かない。でも、同じ陰陽師に対してだけは無理だ。同じ思想の下にいたはずの肉親。欲に溺れた奴らが水知の陰陽師として生きることを、僕は許すことができない。
 僕のもっとも大切な兄さんを奪った奴らには同じだけの喪失感と痛みを与えなくては気が済まない。それでも、僕の傷が癒えるわけではないのだから。
「奪うよ…地位も富も彼らの得た幸せというものを…全て」
 すでに敗北感は植え付けた。そう思うと、笑みがこぼれる。
「そう言うことを笑いながら言えるとは…お前性格が悪化したな」
 悪化…つまり最初からあまりよくなかったというニュアンスではないか。それにはさすがに眉をひそめる。
「お前ボケたようで、嫌味吐くのが得意だったろうが」
 苦笑するように蒼真が言う。
 あまり肯定したくない事実だ。昔は考えなしに話していたのだろう。今は心の内に隠すのが上手くなったものだ。
 エレベータが止まった。エレベータで登れる最上階まで来たのだ。だが屋上まではまだけっこうある。ここからは階段らしい。
 上を見上げた瞬間に、怖気が立った。僕も蒼真も強大な鬼力の出現に血の気が引いた。こんな悪寒を感じたのはいつ以来か。
「まさか…示現させたのか!」
 考えられたのは緋鳶の示現だけだった。僕の脳内では高速に事態を把握しようと細胞が活動した。その結果、階段を駆け上ることとなった。
「久苑!」
走りだそうとしたときに、蒼真に呼ばれた。顔が連れて行けと言っている。
足手まといはごめんだ。僕は情をあまり優先しない。僕は渾を優先した。
「蒼真なら大・丈・夫!愛しい旺のためならば這いずってでも登れるでしょ」
 こういうとき、僕は満面の笑みを作ってしまう。悪い癖だとは思う。
 蒼真を放り出して僕は全力で登った。
「そう言うところが、性格悪いって言うんだよ!」
 蒼真の叫びは僕には聞こえない…ことにした。

 ことのあらましを話すと、旺は笑っていた。
「久苑は振り回されているようでいて、一番強いわよね。昔から莉玖も頭が上がらなかったし」
「まぁ、口は回るからね」
こうして、穏やかに話していると本当に昔に戻ったようだ。
そう…昔に……。
僕はふつりと黙り込んでしまった。過去を振り返るとどうしてもよぎるあの日。自分の人生が激変したあの晩のことを思い出す。
「久苑…静馬さんはやっぱり……」
 旺は沈んだ声で尋ねた。旺は、事のあらましを聞いただけで、あまり詳しくは知らないようだった。
「うん…もう会えない」
 死んだとは言えない。この世と冥界の狭間にいて、冥道門の掛金として長い月日をそこで過ごすのだろう。肉体が朽ち果てても、精神と魂がそこに留まり、その任を続ける。精神が擦り切れ、魂が朽ちたとき、境界を漂う粒子となるのだろう。
「後で知ったんだけどね…百年周期ほどで冥道門に水知家は人柱を立てていたらしい」
 白鷺がその周期に合わせたように事を起こした。最悪の事態を避けるための最良の方法が、人柱だなんて、なんて愚かしいのだろう。
 僕は泣きそうな気持だった。兄さんのことを思い出す時はいつもそうだ。
「歪みを止めるためには仕方がない…どうして、冥道門がそうなるのかはわかってないけどね」
 きっと莉玖達、渡吏は知っている。でも、未だに訊くことができない。それを知ることは奈落の底に手を入れるようで本能的に拒否しているのだ。
「それでも……どうして、静馬さんが……」
 旺はこらえきれずにパタパタと涙をテーブルに落した。握りしめた手から血の気が引いて、白くなっている。
 旺は兄さんのことを慕っていた。それは、莉玖も、蒼真も同じだ…。

兄さん、水知静馬はすごい人だった。
頭脳明晰、冷静沈着、陰陽師としても一流だった。それでいて、とても優しかった。薄茶色の眼はいつも柔らかに僕を見てくれていた。僕の憧れの存在だった。

「しーらーがっ!」
 学校からの下校時に、後ろから頭をはたかれて馬鹿にしたような笑い声が通り過ぎていく。僕は思わず涙ぐんでしまう。
「うっせぇんだよ!ガキ!」
 莉玖が思わず、走り去る男の子達にかみつく。
「お前もグズグズするな!言い返せよ!」
 莉玖の一喝で、僕は余計に涙ぐんでしまった。
 背の低さ、女顔、毛色が違うこと、コンプレックスの塊のようだった。
「小学生が同じ小学生にガキって言うのはどうなんだろうなぁ」
 僕はふっと顔をあげた。頭をクシャリと撫でて、兄さんが優しく笑っていた。同じく学校帰りの兄さんが、そこにいた。
「莉玖の言うことも一理あるが、人には人の性格があってだなぁ…」
「兄さん」
 僕は嬉しくなって笑ってしまった。
「言い返すだけの力を持つか、全てを許せる心の広さを持つか、とりあえず泣くのはやめような」
 兄さんは声を荒げることはしない。でも、真剣な目でいつも諭すように言う。
「お前は、お前らしく自信を持って人に接すればいいさ」
 その優しい笑みに何度も救われた。
 次の日くらいだろうか。まぁ、クラスで仕切っている男の子達に囲まれた時だ。
丁度莉玖がいなかった。莉玖は喧嘩が強くて、口も達者だから、みんなから怖がられていた。僕はその後ろに隠れがちだったので余計に目の敵にされていたんだろう。
「女みたいな顔してなよなよしてさ」
 気にしていることを言われて、思わず俯いてしまった。
 その時、兄さんの僕らしくって言葉を思い出した。
 僕は、全てを許容するほどできた人間じゃない。かといって、莉玖みたいにかみつくこともできない。でも、素直に思ったことは口にできると思った。
 この事件が、僕の性格を確固たるものとしてしまったんだろう。
「そうだね…僕も女顔ってやだなって思ってる」
 意外な返答に、男の子達は面食らっていた。
「僕だって、君みたいな岩石っぽい顔の方がよかったよ!」
 今更ながら、やってしまったと思う。
 嫌味ではない。本当にそう思っていたのだ。そう、純粋とか素直って怖いほど核心をついてしまう。
 彼の顔が真っ赤になって僕につかみかかってきた。僕はつい、条件反射で拳法の技をかけてしまった。投げられた彼の驚いた表情は今でも忘れられない。
 この日から、僕は危険人物であるとともに面白いやつとして、認識されるようになった。

僕が九歳の時、両親が事故で死んだ。
僕はその日、嫌な予感を覚えて、占具を引っ張りだした。端的に『別れ』を占は示していた。何を意味しているのかよくわからなくて兄さんを呼ぶと、兄さんは血相を変えて電話をかけた。そして、旅先での両親の訃報を知った。
僕の予知・予言の力が強いことがわかったのはこの時だ。
愕然として、泣き続ける僕を抱きしめて、兄さんは言ってくれた。
「久苑、二人でしっかり生きよう。俺はお前と一緒にいる」
 兄さんも泣いていた。変えることのできなかった運命。
でも、それでも、僕らは二人いればこれからも歩めると誓いあった。
当主だった父さんが死んで、次期当主を誰に据えるのか、一族で大揉めに揉めた。当時兄さんは十九。血筋としては兄さんが継ぐべきだったが、若すぎると分家から猛反対をくらった。その先鋒が隆弘叔父だった。父さんの弟でもあった叔父は、次期当主に一番近い人だった。
だが、聡明で陰陽道においても頭一つ分一族の中で飛び抜けていた兄さんは当主となった。羨望と共に多くの妬み嫉みも買った。
疲れたように息をつき、僕の視線に気づいては困ったように微笑んで、大丈夫だと頭を撫でてくれる兄さんを見ていると僕はいつも泣きたい気分だった。
自分の無力さを痛感するのだ。

兄さんが当主となってから、僕は一族の中でよくその不満のはけ口にされた。
霊力の制御できない僕は、水知の主要な陰陽術をうまく扱えなかった。良くできる兄の後ろにいる、できの悪い弟は恰好の獲物だった。
大人たちの僕自身への蔭口は平気だった。それでみんながまるく兄さんの言うことを聞いてくれるなら、兄さんの役に立っていると思い込むことで、耐えることは容易くできた。
ただ、それは僕の中で膿となって、それから先もずっと抱えることになるとは、その時は思ってもみなかった。
これは、僕の屈折した性格と、「笑顔」を手に入れるきっかけを与えたのだ。
泣くでもなく、怒るでもない…薄気味悪いぐらい困ったように笑うと、彼らは面白みを無くして僕の前から消えていってくれた。

人の感情を読み取ることに長けていた。だけども、自分自身の事に関しては何もわかっていなかった…。

隆弘叔父の息子二人が術書を借りに家に来た時の事だった。
隆正と弟の弘樹が僕をいびるのはいつもの事だった。だけど、その日は隆正の機嫌がすこぶる悪かったようだ。僕の反応が気に入らないのか、つい手が出て僕を殴り飛ばした。
書庫で、僕は本棚に激しく背中を打ちつけてうずくまった。さすがに、僕も我慢が出来なくなって、ギッと睨みかえした。
「生意気な目、しやがって…静馬がいなかったら何もできないくせに!」
「隆正従兄さんに言われたくありません!叔父さんがいなかったらあなたは兄さんの足元にも及ばない!」
 兄さんと二つしか変わらない隆正はよく兄さんと比べられていた。そのことを知った上で僕は思わず不満も露わに嫌味言を吐いた。笑っている間に去ってくれなかったため、僕の気持ちが抑えきれなくなっていた。
「兄弟そろってなんてやつらだ!兄貴の方も、ヘラヘラ笑って、偉そうにしやがって!あいつなんかたいしたことないじゃないか!」
 …ヘラヘラ?…偉そうに?…たいしたことない?
いったい何を言っているんだ。こいつは!
 彼の言葉が耳に反響して消えなかった。そして、今まで感じたことのない思いが僕の中で生まれた。その止めどない衝動……。
 僕の中で湧き上がる怒りの念が止まらなくなった。僕の初めて体験する自分自身の激情。僕をなんて言おうとかまわない。でも、兄さんのことを悪く言うことだけは許さない。どれほど兄さんが頑張っていると思う?水知という家に縛られて、僕という弟に縛られて、それでも全てを許そうとするあの優しい人を、なぜお前ごときが汚せるのだ!
「ふざ…ける、なあぁあ!」
僕の怒号と共に僕の内包する強大な霊力がその猛威をふるった。大気がたわんで強風が隆正達に叩きつけられた。
ばらばらと、書物が棚から落ちる。本棚自身も揺れて今にも倒れそうだった。
強風はいつの間にかかまいたちへとその姿を変えて、切り刻み始めた。
「うわあぁぁあ!」
 隆正達の周りを切り裂いて、本棚を割った。大きな音を立てて崩れた。
 その本棚の破片や無数の書物が隆正達に降り注ぐ。
 下敷きになった二人は、うめき声をあげて床を爪で掻いた。
 僕は、なおも力を止めることなく激情と共に垂れ流していた。
 その時、パシンッと僕の頬を力いっぱいひっぱたく乾いた音が響いた。その瞬間初めて正気に戻って、力の放出が止まった。
「兄……さ、ん」
 今までそんな兄さんを見たことがなかった。何も言わずに向けられた薄茶の目が怒っていた。僕はすくんで動けなくなった。
 兄さんはため息を一つ吐くと急いで倒れた本棚を起こした。弘樹はうずくまってカタカタと震えていた。だが、弘樹をかばった隆正は頭部から血を流し、顔を赤く染めていた。
 兄さんは狼狽して、急いで隆正を抱えて走っていった。よろよろと、弘樹もその後ろをついて部屋から出ていった。
 僕は硬直して、隆正の残した血の跡を見ていた。
 寒気がして、震えが止まらなかった。
 僕は、彼を殺そうとしたんだ。

 気がついたら夜だった。何も考えることができずに、書庫にうずくまってずっと一人で震えていた。
 不意に電気がついた。はっとして顔をあげると困り顔の兄さんが目の前に膝を折って僕の顔をのぞいていた。
「久苑…」
 その声音はとても優しくて…優しくて……
「大丈夫、命に別状はないらしい」
「う…うぇ…うぅ…」
 止めどなく涙が嗚咽と共にこぼれおちた。
 兄さんは僕をただ抱きしめて背中をさすってくれた。
「…ぼ、く…怖い…」
 泣きながら僕はぽつりと漏らした。
「ぼ、ぼ…く自身、が…怖い!」
 感情にまかせて、制御できない力を発してしまった。でも僕は、あの時…力を発したときに恐怖する二人の顔を見て喜びを覚えたんだ。恐怖も罪悪感もなかった。ただ、楽しかった…死んでもいいと思っていたのだ。
 この時感じた。僕の心の歪さ。人として何かが欠落したその不気味さ。
きっと、これから先も僕は人を傷つけてしまう。しかも、それを簡単に可能とするだけの力を持ってしまっていた。自分の力にとてつもない嫌悪感を抱いたのはその時が初めてだった。
「久苑、力を使って人を傷つけてはいけない。陰陽師は人を救い導くためにあるんだ…。いいかい?常に凪いだ心を持つんだ」
兄さんの声が僕の脳に響いた。ただ、何度も頷くことしかできなかった。
「大丈夫だ。俺はお前のそばにいるよ」
 この一族の中で感じる孤独感。どれだけ我慢してもつもり積もっていく思い。たとえ、莉玖や蒼真、旺がいても、僕は水知の中で生きていかなくてはならない。このままの状態で一生……。
逃げ出したかった。本当にそこが嫌いだった。
 何よりも僕自身の事が嫌いだった。諦めたようにそこで笑う自分が一番嫌いだった。人の心ばかり気にするような生活が息苦しくて耐えがたかった。
 どうして僕は水知久苑なんだ!
 そんな僕を抱きしめて、兄さんは言う。優しい言葉を囁いてくれる。
 母のような温かさを僕は兄さんに感じていた。

 今にして思えば、激しい依存だ。あの時の僕は確かに兄さんなしでは生きることができなかった。
兄さんは重荷でなかったのだろうか。あの優しい笑みの向こうにいつも苦しみを抱えていたのではないかと、今さらだけれども何も気づけずに寄りかかっていただけの自分を後悔する。
 一族を憎む僕は、旺を巫女から解放したいという蒼真の望みがよくわかった。僕も解放されたかった。そして、兄さんを解放したかった。
 今更、どうすることもできないのだけれども……。
「そろそろ泣きやんでよ」
 僕は、旺の頬に触れて、伝う涙を拭う。彼女の白い肌も、うるんだ黒の瞳もとても美しいと思う。彼女に惹かれる人間が多いのはよくわかる。
「ごめん、なさい」
「謝ってばっかり」
 困ったように笑うことしかできなかった。
「パソコン借りてもいいかな?」
 唐突に話題を変えた。
「え、えぇ。かまわないけど」
 僕は離れにあるパソコンに向かった。
 キーボードを叩いて、水知家の裏の顔をまとめた情報ファイルを引っ張りだした。誠一さんの所にいたのは、情報収集とその使い方を学ぶためだ。この時のために。
 メールに添付して、有名な報道局に送る。送信ボタンを押す時に僕は震えていた。
これは恐怖ではない歓喜だ。

 知っていた。僕は水知家が嫌いだ。壊したくて仕方がなかった。
 過去が嫌だった。思い出したくない…無力で愚かだった僕自身を。

 前から、僕は水知の歪さに気付いていた。いつかは、壊れるとわかっていた。
 壊れればいいと思っていた。でも、兄さんは失いたくなかった。
 兄さんの言う陰陽師になりたかった。でも、水知であること、力を持つことは嫌だった。
 水知に誇りを持っている。でも、嫌悪もしている。
 なんて矛盾…なんてわがまま。
 それを隠したかった。
 ただの八つ当たりだ。わかってる。

 それでも、僕は僕を支えていた木が無くなって、何かを代わりにしなくては生きていけなかった。
 僕は僕たち兄弟を苦しめ、最終的に兄さんを僕から奪った分家が、今の水知家が憎い。この思いは止められない。
「全く、僕はあの時から全く成長していないな」
 自嘲して笑い、僕はポツリとこぼした。
 隆正を傷つけたときの激情は今も僕の中にいる。そして、感情的に力を使ってしまう。

僕は強くない。何かを踏み台にしてしか、前へは進めない。
 だから、ここからまた歩き出す。
 十年間、いやもっと前から、僕の心を黒く染めている冷たい雨はきっとまだ止まない。
それでも……
それでも、ここからまた「僕」を求めて歩むしかない。
兄さんに生かされた僕。
兄さんに縛られ続ける僕。
生き続けること。これは、僕に課せられた過去への贖罪。

思わず笑みがこぼれる。

其れが天命というのなら、まっとうするだけだ。


〈fin〉





あとがき

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