「ねぇ、君」
僕が呼び止めると彼女はとても優雅に、しかし何処か気だるそうな所作で振り返った。
「何、」
「此れ、君の釦ぢゃないかい。ほら、その外套(コォト)の3番目の」彼女の外套はとても上質で、染みったれた僕のとは全然違う。だけど僕のが襤褸(ぼろ)なのは仕様のないことだ。何しろ兄貴からの御下がりなのだから。彼女は暫く僕の掌で所在無さそうにしている釦を見つめた後、ちらとだけ僕の方を見た。前髪の隙間から、上目遣いに。
そろり、彼女の細く白い手が緩慢に動く。ゆっくり、釦へと手は伸びてくる。
まるでスロォモーション。何故だろう、僕は不用意に動悸して。「あの、」
僕が何か言いかけたとき。さっと彼女は釦を僕の掌から取り上げ、踵を返して言った。
「それぢゃあ、さよなら」
颯爽と歩く彼女は、清い。僕は一瞬、呆けた後に彼女に言った。
「ねぇ」
「……何」
「どうして素直に言えないの」
「……何を」
「有り難う、と」彼女は振り向き、少し不機嫌そうな顔をしながら僕に歩み寄る。そして僕が仕舞い忘れ、差し出してそのままだった掌に釦を返した。
「差し上げますわ、其れ」
「だけど、君の外套は」
「もう着ませんもの、こんな外套。だって、」さぁ、と風が吹いて淡い色の花弁が舞った。
「「桜の季節ですから」」
外套も手袋も要らない。僕は妙に高鳴る胸に、桜の馨りをいっぱいに吸い込んだ。
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「あぁ、そんなこともありましたわね」
彼女は事も無げに言う。そんなこと、と彼女は云うけれど僕にとってみればそんなことでは済まない。君と僕が初めて出会った時のことだよと口を開こうとしたが、彼女が満足そうに微笑んでいるのを見て止めた。何のことはない、彼女はちゃんと解っている。ただあまり面(おもて)に顕さない、ただそれだけのことだ。
「そんな風に捻くれていた頃もありましたわね」
現在(いま)だって彼女は多少なりと捻くれている。僕の意を知ってか知らずか大切なことはすぐにはぐらかすし、今も愛しい猫の耳を引っ張っては怒らせどこかへ行かせてしまった。
「気がつけばこの花の咲く季節が巡っていて、気づけば年老いていて。嫌だわ、また私ったら眼鏡を何処へやったかしら」
頭の上、カーディガンのポケットと順に触っては確認していく彼女。僕はゆっくりと自分の上着の内ポケットから其れを取り出した。
「僕の書斎の机の上。君、またあそこで転寝をしただろう」
「あら嫌だ、隠しておくなんて意地悪な人ね」隠しておいたつもりなんて毛頭ない。彼女はいつもそういう言い種で、彼女のほうこそ、意地悪な人。けれど同時に、とても優しい人。
彼女は受け取った眼鏡を掛けると、よいしょと揺り椅子から立ち上がった。そうしてこの庭で一番の古株の、大きな桜の木の下へと歩いていく。僕といえばそんな彼女の姿を腰掛けたまま見つめていて、ふと、気がつけば右手が動いている。長年のデッサン癖だった。僕は何度、あの桜の下に立つ彼女を描いただろう。
今では黒よりも銀が多くなってしまった髪も、柔らかな白い肌に刻まれた深い皺も、確かに年月こそ感じさせるものの彼女の魅力は奪えない。それどころか桜色舞い降る世界の中で、彼女は両手を広げ、いつまでも輝いていた。
嗚呼、彼女はいつでも自由で、そして、僕は。
「ねぇ」
僕は尋ねた。
「君は本当に、僕でよかったのかい」
彼女は振り返らない。そしてそのまま、彼女は僕に聞き返した。
「ねぇ、桜の何所がお好きなの?」
「え?……そうだな、見事に咲いて、そして潔く散っていくところかな」
「まぁ、なんて平凡」そして大仰に溜め息をついた彼女は、したり顔をしてこちらに向かう。
「私はね、花が散った後に生る甘酸っぱい赤い実で、貴方が作るジャムが好きなの」
彼女は僕にぐっと顔を近づけると、眩しいほどの笑顔で凛と言い放った。
「つまらない人間の傍で一生を終えるほど、私、暇人じゃあなくってよ」
だから、最期まで、一緒です。
たとえ桜の花が散り、別れるときが来ようとも。
あの時の釦が、僕の肌身離さぬ一生の御守であることは、僕の墓場までの秘密。