月夜、風が吹いて雲が晴れた。
 満月、たっぷりと黄金を潤ませて恍惚とする。
 落ちる、あられもない声を上げて。

 男が、一人。

 「いぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁ…!!」

 残響虚しく落ちる、墜ちる。
 悲鳴闇夜に融ける、消える。
 刹那、受け止めたのは神の手でも奇跡でもなく、自転車の前カゴだった。

 がしゃああん!と、雑な音が響く。

 「あいた…!」

 まぁ猛然とした勢いでカゴに突っ込んだにも関わらず、男の反応は箪笥に小指でもぶつけたかのような軽さで。いや、あれは軽い痛みではない。もっと悶える。じゃあ肘を強打したときのような軽さで。いや、あれも随分痛いと思う。
 とかく男はさほど大惨事にもならず、普通の自転車によく見られる標準的なサイズの前カゴに見事、お尻からすっぽりINしている。もはや芸術的である。とはいえ滑稽というか無様なその姿を気にする様子もなく、少女はまぁ悠然とハンドルを握りペダルを漕いでいた。

 「……あのさあのさ、もう少し丁寧なお迎えはなかったのかな」
 「地面にめり込んで血と脳髄ぶちまける前に拾ってもらって、しかも座る席まで用意していただいてることに最上級最敬礼を示すべきだと思うけれど」
 「ああうんそうだね、君にはそうすべきだったね」

 男は黙ってカゴからはみ出た膝を抱え、前方にちらつく一等星(ヴェガ)に視線を送ることにした。自転車はゆるゆると進む。月夜をぐんぐん上昇しながら。

 「ここ、地上何メートル?」
 「高度3000m」
 「なにそれ飛行機でしか聞いたことないよってか酸素薄いわ!」
 「だったら死ぬ?」
 「生きます」

 間髪入れずに答える男の台詞に間髪入れる間もなく少女が舌打ちする。男41歳、少女9歳の夜である。男はロリコン趣味ではないが少女は確実にツンデレで。ツン9割9分デレ少々の割合で。いやむしろヤンデレの方向で。いやもはやデレは迷子の方向で。

 「ねぇなんで自転車にしたの」
 「最近運動不足だったから」
 「地上で漕げばいいじゃない!」
 「魔女が地べた走行ってダサさの極みだから。ダサすぎて死ねるから」
 「なにその飛べない魔女はただのブタだ理論!ダサさで死ねたらおじちゃんとっくに死んでるから!っていうかこんな物理的にも精神的にも地に足着かないドライブでおじちゃん死にそうだよ!」
 「はい死んでー、超嬉しいから今すぐ死んでー」
 「いやだ反抗期!」
 「つうかいい年した中年のダメ男が幼女のカモノハシの如く細く可愛らしい足で重たいペダル漕がせてその使えない身体運ばせてることに恥辱感じて憤死したらいいと思う」
 「もうなにそれ…イマドキの子、こわい……」
 「はい、子ども扱いしたらぶっ殺す」

 何、気にすることはない。彼らはいつでも、こんなふうだった。
 ある程度の高さまで上昇したところで、自転車は地上に対し水平を保ち真っ直ぐ進みだした。方角は相変わらず一等星(ヴェガ)を目指す。男は頬を掻き、苦笑いを交えながら軽く溜め息をつくと質問を最初に戻した。

 「まったく…君の力なら箒や自転車なんかじゃなく、車や船だって出来たでしょう?」
 「余裕だけど、無駄なスペースは使いたくない」
 「無駄なスペース?…あのね、こんなもの“飛ばしてる”子に言われても説得力無いよ」

 そういって男は笑う。そして男の言う『こんなもの』は、時折月の光を遮りながらゆっくりと二人の乗る自転車の後ろをついて飛んでいた。車よりも船よりもよっぽどかさ張る、城ひとつ。

 彼女は魔女。どんなものでも“飛ばす”ことの出来る、魔女。

 「前代未聞だと思うよ、『王宮の壁画を、一切傷つけることなく持ち出せ』って試練出されて、城ごと搬出しちゃった奴ってのは」
 「別に条件は満たしてんだからいいでしょう」
 「なるほど、そうだね」

 彼女の言葉に男は微笑む。

 「それに、」

 これが一番誰も傷つかない、そう独り言のように呟く少女に、そうだね、と男も独り言のように囁いた。男は知っているからだ。王宮の壁画の間に、試練の為に様々なトラップと敵が配置されていることを。そこで挑戦者たちが繰り広げる生々しい現状を。今さっきまで、この目で見ていたのだから。

 「いやぁ、それにしても空飛ぶ自転車に天空の城……まさにスタジオジブリだね」
 「空飛ぶ自転車はユニバでしょ」
 「それ僕、宇宙人ってことかよ!ちっくしょい!!」
 「スティーヴン・スピルバーグが泣くわ」
 「っていうかさ、僕そのまま城の中に居たらよかったんじゃない?そしたらこんな運ばれ方しなくてよかったんじゃない?」
 「嫌。あんたが辱めにあってないなんて私の嗜虐心が許さない」
 「えぇぇぇぇ暴君!ネロ真っ青の大暴君!」

 男が前カゴでじたばたと暴れる。少女は平然とペダルを漕ぐ。
 次の瞬間、雲ひとつない月夜から二人めがけて雷が落ちた。しかし、その光の速さを凌いで自転車は軽々と避ける。二人の顔色は、ちっとも変わらなかった。

 「狙われてるね」
 「あんた相手しなさいよ」
 「えぇ!?僕!?」
 「私、今運転中」
 「いつでも手離せるくせに…!」

 そうこうしているうちにもう一発、今度はさらに大きな雷が降り注ぐ。しかし、今度は自転車が避ける前にその雷は掻き消された。ばちん!という大きな音と小さな爆発を伴って。

 「うわっ、なにこの自転車うしろに荷台付いてるんじゃない!どうせならこっちに乗っけてよ!」

 爆発後の白い煙の向こうからそんな声が聞こえる。風が視界を晴らして見れば、男はどうやってか前カゴを脱出し荷台の上に立っていた。男は顎に手を当てて不精髭をこすると、口許にゆるい弧を描いたまま言う。

 「やめにしない?」

 相手の姿は見えない。しかし雷はまた自転車に向けて放たれた。
 が、次の瞬間には眼にもとまらぬ速さで、男の手からも雷が放たれる。二つの同じ力は空中でぶつかり合い、先程と同じ大きな音を立てて相殺する。また白煙が上がるも、少し強く吹き付けた風にあっという間に流される。そこには何事もなかったかのような空気が流れ、自転車はやはり澱みなく城を引き連れ走っていた。

 「キリがないと思うよ、たぶん。自慢じゃないけど僕、試合では引き分けにしかなったことないんだ」

 男はまだ右手でパチパチと爆ぜる雷を、まるで糸屑を払うように振り払う。余裕そうに見えて、どこか申し訳なさそうな表情だった。

 「ホント自慢にならない」
 「だってそうなんだもの、しょうがないじゃない。大体好き好んでやった試合じゃないしさ」
 「じゃあなんでこのゲームに参加したの」
 「さぁ、何故でしょう?」
 「ホント役立たず」
 「まぁまぁ、そう言わないで。仕方ないんだよ、そういうふうに出来てるんだから」

 彼は申し訳なさそうに、けれどちっとも自虐的ではなく笑って諦観した様子で言った。少女も口では酷く言っているが責める気も貶す気も本当は毛頭ない。彼を本気で役立たずなどとはつゆとも思っていない。彼女にだって解っているからだ、男がそういうものであるということが。そして、彼女自身も男とは違う意味で『そういうふうに出来ている』ということが。
 彼らの遣り取りを知ってか知らずか、蒼い稲妻を纏った暗雲が急速に湧きはじめ、月を隠した。辺りはすっかり暗くなる。少女は自転車のライトを点けた。
 刹那、3本の矢のような閃光がこちらに向けて走る。同じく男の右手から矢は放たれ、中空でぶつかり掻き消し合う。けれど少女の瞳は捉えていた。掻き消したのは2本―…残る1本が進路を曲げ、自分へと向かっているのを。


 「だからさ、やめようって言ってるじゃない」

 また、風が白煙をさらう。その先ではやはり、同じように少女はペダルを漕ぎ、自転車は進み、男は荷台に立ち、城が付き従う。十数秒前と何一つ変わらない光景がそこにはあった。
 少女は視界の隅に閃光が自分を狙ったのを見ただけで何もしなかった。何のことはない、男もまた同じようにして3本目の閃光を曲げたからだ。そして、相殺した。少女には男がそうすることは解っていた。否、そうなるしかないのだ。男はまた、不精髭に手を遣る。

 「キリがないんだよ…僕は君の動きも力も考えも全部、複製(コピー)しちゃうんだから」

 そう言う男は困ったように笑った。だって彼には、それ以上も以下もない。

 だから彼は矛盾。最強にして最弱、あるいは最強の最弱。

 「はい、運転交替」
 「えぇ?このタイミングで?」
 「黙ってハンドル握りなさい」
 「…で、君はどうすんの?」
 「決まってるじゃない」

 少女は自分の靴を“飛ばして”ふわりと浮くと、振り向きもせず言った。

 「ちょっと“ぶっ飛ばして”くる」
 「ははは、しょうがないなぁ、もう」

 男は呑気に構えて運転を代わった。彼は知っている、彼女の“ぶっ飛ばす”が誰も傷つけないことを。そりゃあ、まぁ、軽く3日は気を失うかもしれないが。経験者は語る。

 「飽きないねぇ」

 男は誰に言うわけでもなく呟いて、自転車を走らせた。
 自転車のライトの先には、また一等星が輝いていた。




















あとがき