冷たい雨がしきりに頬を打つ。雨でべっとりと濡れた髪が顔に張り付いて気持ち悪いが、払おうにも体中が痛くて少年は身動きができなかった。
俺も…もう死ぬのかな。自嘲するように天を見上げて笑った。
0区では弱いものは順に淘汰されていく。その順番が彼に巡ってきたのだと諦めていた。
暗い裏路地はそこかしこにゴミが散らばり、冷たく無機質な壁と舗装の中途半端な地面に囲まれていた。少年はまるで散らばるごみと同じくらいぼろぼろで、血と泥にまみれて浅い呼吸をしていた。
左足から流れ出る血の奔流する匂いにむせそうになりながら、もたれている壁の冷たさを感じていた。
体が氷のように冷たい。それほど遅い時間ではないが雨のせいで空は暗く、冬のため日はすでに沈んでしまっていた。
寒さの上に雨が降りつけ体温はどんどん下がっていく。
少年の意識が遠のきかけたその時、雨がやんだ。
薄く目を開けると傘を少年の方に傾け、眉間にしわを寄せた男が片膝をついて少年の目の前にいた。
彼はため息交じりにハンカチを出したかと思うと、少年の左足を縛って止血をする。そして彼の肩を担いで立たせた。
「何してるかわかってるのか、おっさん」
かすれた声は馬鹿にしたように笑っていた。
「やはりこういうところも巡回せんといかんな」
「聞いてるのかよ!」
素っ頓狂な答えにイライラが募った。ただでさえ寒さと痛みで苦しくて仕方がなかったのだ。少年の思考はどんどん低下していく。
「死にかけているような奴を助けることも俺の仕事だ」
「……医者か?」
「警官だ」
男は少年を背負うと傘を首でうまく支えて早歩きで路地を後にする。
有無を言わさぬその行動に彼はあっけに取られてしまった。
「最悪だ」
複雑な思いが交わって出た言葉がこれだった。
生きることがつらくて、もう死んでもいいと思っていた。それで楽になれると思った。しかし、こんなところでくたばりたくないという思いもあった。
でも、助けてもらうのは恥ずかしくて、しかも、自分の嫌いな偽善を掲げた警察官に助けられるなんて、思ってもみなかった。
それでもせっかくつかめそうな自分の生の可能性を信じ、少年は男の背に体をぐったりとよせ、目を閉じた。
放形誠一(はながたせいいち)が佐々山啓介(ささやまけいすけ)と出会ったのは、誠一が十一歳のそんな冬の日だった。
誠一が目を開くと、そこは暗い廃墟の屋内だった。
電気のつかない蛍光灯と、ひびの入った天井を寝転んだまま見上げて苦笑いをした。
ずいぶんと古い思い出だな…。
起き上がろうとしたところで、肩に痛みが走った。
弾なんてくらったの久しぶりだったからな。それで、かな…。
額に手をやった。体全体が熱く、頭もガンガンいっている。どうやら熱も出してしまったようだ。体が上手くいうことを聞いてくれない。
全く厄介な。眉間にしわを寄せて誠一が体を支えながら上体を起こすと、横に付き添っていたままの形で毛布にくるまって眠っている春香(はるか)に気が付いた。
横にもならずに、全く。
苦笑気味に息をつくと、春香が目を覚ました。
「セイ…よかった。生きてて」
「ちゃんと横になって寝とけよな」
「無理よ」
春香は泣きそうな顔になりながらきっぱりと言った。
俺も当分死ねないな。苦笑気味に俯く。
「悪い…心配かけた」
莉玖達を《扉(ゲート)》まで連れて行ったあと区間貿易センタービルからの脱出時に戦闘に巻き込まれ、誠一は負傷してしまった。
ここは0区に持つ春香の武器庫兼隠れ家の一つだった。一旦はここに身を隠すしかなかった。きっと今頃、血眼になりながら白鷺の警備が誠一や春香のことを探しているだろうから。
「傷はどう?」
「弾は貫通てるし、急所も外れてる。しばらく休めば大丈夫だ」
春香はほっと息をついて立ちあがった。
水の入ったペットボトルを持って帰ってきた。
「それほど長居はできないし、さっさと本調子に戻ってよね」
「わかってるよ」
この場所を知っている人間はそれほど多くない。しかし、0区は自分の利益になることなら何でも仕事にする。たとえそれが自分の知り合いを売ることになっても、自分の商売相手を殺すことになっても構いはしないのだ。
一番怖いのはそれだ。白鷺の人間などよりも0区の人間が敵に回ると厄介で、頭を使わなくては逃げきれない。
報奨金制度にでもされたら、それこそ大変な目に合わなくてはならない。
一か所に留まっていると、もしもの時の危険性が増すのであった。
「《扉(ゲート)》でどれだけの体力と弾薬を消費したことか…」
「怪我の治療費も莉玖(りく)に請求してやる」
よくもまぁ無事にここにたどり着けたものだと二人は思った。
とにかくひどい目にあったのだから。
「やっぱ、やめとくべきだったかもなぁ」
誠一が区間貿易センタービルの入口の守衛をミラー越しに見ながら苦笑を浮かべた。
「今更ね」
春香は大仰に肩を落としてみせる。
もうあの入り口を通ってしまった段階で後には引きかえせない所へ二人は来てしまっていた。
もう十年もたつのだ。それでも今なお心の奥底から沸き起こる、行き場のない怒り。莉玖達に託す形ではあるがこのことが終われば、少しは二人も前に進めるのではないかと、淡い期待を持っていた。
思惑通り、《扉(ゲート)》直前の熱探知箇所までは何の問題も無く進むことができた。
ここからが勝負だった。誠一と春香に緊張が走る。隠しておいた銃と弾薬を忍ばせる。
誠一が無線機に手をやった。
「莉玖、いけるか?」
『あぁ』
莉玖のヘルメットに内蔵した無線機とつながる。後方の荷台の中で、バイクのエンジンがかかる音がした。
「……ぬかるなよ」
『はっ、お前らこそ下手打つんじゃねぇぞ』
誠一と春香はお互いに目配せをした。
春香は起爆スイッチを持って笑ってみせる。もう一方の手には事前に渡された久苑(くおん)の不可視符(ふかしふ)があった。
車の扉を半ドアにして押せば開く状態にする。
「行くぞ…3・2・1…」
カチッ。
誠一のカウントが終わると春香は起爆スイッチを押し、それと同時に車から転がり落ちように二人は飛び出した。
轟音とともにトラックは派手に爆発した。
したたかに体をぶつけながらも体勢を立て直して二人は一直線に走りだした。
それとは逆に莉玖達はバイクで疾走していく。横目でその姿を確認して、誠一は足に着けたホルスターから銃を引き抜いた。
作戦は単純だ。爆発による目くらましと、敵の注目を莉玖達に集め誠一達の退路を確保する。爆発と同時に不可視符で姿をくらますので焼死にも見せかけることができる。敵がそれほど馬鹿でなくとも時間稼ぎはできる。
区間連繋路は一階と二階があり、一階部分に当たるところが車道となっている。二階部分は車道の上が抜けており、側壁に沿ってオートマチックの設置されたギャラリーがある。そして、一区と0区それぞれの入口上部にある、警備のコントロールルームとつながっていた。
一階の入り口横に緊急時の警備員用非常口があった。ここにはコントロールルームと直結する階段があった。
誠一達が来た車道をそのまま戻るよりも、姿を隠したままコントロールルームを抜け貿易センタービルの内部を突っ切って逃げる方が、はるかに素早くこの地から離れることができるのだ。
後方で爆発の騒ぎに慌てる他の車と、人ごみにまぎれつつ息を殺して二人は非常口のそばにある機械の影に身を隠した。
いくら不可視符を使っていても、念には念を入れなければならない。
警備員が非常口から出ていく。人の出入りが途切れるのを見届けて、春香が先行して階段を駆け上った。
コントロールルームに残っていた警備員は三人。二人の存在に気が付いていない警備員に春香は突きをくらわせて昏倒させた。
「ぐぅ…」
鈍い音とともに崩れ落ちた同僚を見て、困惑した表情を見せた二人の警備員はすぐに銃を構えたが、引き金を引く前に弾き飛ばされ、先の警備員と同じく激しい拳打をその身に受けると崩れ落ちた。
「ふう、出だしは快調ね」
「でなきゃ困るだろうが」
久苑にもらった不可視符を口から離すと、不可視符に書かれていた梵字がすっと消えていった。人の唾液を含ませるとその効力が発揮されるが、制限時間が十五分で、しかも一度しか使えないという難点があった。
壁に身をよせて廊下の様子を探る。どうやら、莉玖達の陽動が上手くいったらしく警備は誰もいなかった。
がらりとした廊下を見て、誠一はほっと息をついた。
「走るぞ」
廊下を一気に駆け抜けて左に折れる。すぐそこに見えたエレベーターの上へのボタンを押す。
すぐに、エレベーターが到着したので、二人は乗り込んで息をついた。
地下にいては退路がとれない。《扉(ゲート)》があるのは地下二階だ。コントロールルームは地下一階に当たるので、一階上れば地上に戻れる。
二人は壁際に身をよせてじっと待った。
すぐに一階に着くと、エレベーターの扉が開いた。人の気配がなかった。
二人がそろりと外に出たとき、壁際から弾幕が襲いかかった。
「うわっ!」
二人は慌てて全力疾走する。後ろから二機の黒い円柱形の機械が追ってくる。サブマシンガンを搭載したそれは、二人の足元を狙って連射してきた。
「嘘でしょ!オートマーダー放してる!」
春香は後ろをちらりと見ながら叫んだ。
「つべこべ言わずに走れ。あれの欠点は精密性に欠けることだ。できるだけ距離をとらねぇとハチの巣だ!」
自動式侵入者排除システム。
その名の通り自動的に認識した侵入者に対して排除行動、つまり殺人行動をする機械やロボットのことである。その中でも追跡機能を持つものは特にオートマーダー〈自動殺人機〉と呼ばれていた。
誠一は自分の銃のスライドを引き、曲がり角を曲がった瞬間に振り返って弾丸を二発放った。弾丸はオートマーダーに付いたサブマシンガンの銃口を打ち抜き暴発させた。
轟音とともにオートマーダー二機は派手に砕けた。
その瞬間に火災報知機が反応しスプリンクラーから水が放射される。赤色灯が光を放ち、警報音がけたたましい音を立てる。無数の人の声と駆けてくる足音か聞こえてきた。
「ちょっとやばいんじゃない?」
春香の表情がひきつった。誠一も背中に嫌な汗をかいていた。
「やばいかも、なっ!」
誠一が言うよりも早く二人は両横にそれぞれ跳んで壁の影に隠れた。その瞬間に前方からサブマシンガンを持った警備員が二人現れ、二人に向けて発砲してきた。コンクリートが削れて粉塵が上がる。
「あぁもう!あと少しだったのに!」
春香の言うあと少しとは彼らが脱出に考えていた地点がちょうどこの通路の突き当りだったのだ。そこにある窓を壊したすぐそこに逃走用のバイクを置いていた。
誠一はスライドを引いて、ついっと目を細めると弾幕が一瞬やんだすきに廊下を一気に横切りながらサブマシンガンと兵士達を最小限の弾数で仕留めて、春香の方に移った。倒した警備員のあとからまた同じような者が現れて弾幕を浴びせてきた。
「ぐだぐだ言っても仕方ない」
壁を利用して弾幕の合間を縫い、誠一が腕を出して発砲し応戦する。6発撃ったところで弾が切れた。誠一は険しい顔をしながらカートリッジを変え、春香の顔を見た。
「たくっ、きりがないな。こっちの弾薬が尽きちまう」
「そうね……強行突破するしかないか」
諦めたように息をつき、ごそごそと手榴弾を二つと、バックアップ用の銃を取り出した。
「私が先行する。援護頼むわよ」
銃と手榴弾の一つを誠一に放って渡し、笑みを浮かべて飛び出した。
「おいっ!」
制止の声も聞かず春香は手榴弾のピンを抜いて廊下に放り投げた。警備はまさかこんなところで手榴弾を投げてくるとは思っていなかったのかひどく狼狽して動きが止まる。
それほど火力の高くない目くらまし用に作られた手榴弾だ。春香はひるむことなく前へ出る。
爆発が起こり、巻き起こった風と飛び散った破片を防ごうと警備が顔に手をやったところ、春香はもう前線の警備の懐に入り込んでいた。
「なっ!?」
その速さに警備員は驚いたかと思うと、一瞬で意識を無くした。
春香は爆煙にまぎれて確実に一人一撃で昏倒させていく。春香の戦いの師である人物は、実践に役立つ空手を彼女に仕込んでいた。それは、0区で生き抜くために必要な能力だった。
彼女は目も耳もいい。勘も冴える。そのおかげで多少の煙幕くらいならば、空気の流れと少しの音で人の位置を特定し、攻撃を加えることが可能だった。
前方の警備員を蹴り飛ばす。窓の下の壁に体をぶつけぐったりと倒れた。そのままの勢いでガラス窓を上段回し蹴りでぶち破る。ガラスの激しく割られる音とともに一気に空気が流れて煙が晴れていく。
それを待っていたかのように、廊下の左右にいた警備員たちが春香に銃を向けていた。
ふっと春香は笑って窓に手をかけた。その背後に背中合わせになる形で誠一がいた。鋭い目で両脇の警備を一瞥すると両手に持った銃がそれぞれ的を撃ち抜いていく。そのうちに春香は身軽に窓から飛び出して外へ出た。
誠一は踵を返してすぐに春香の後を追う。その前に手榴弾をもう一つ転がしていく。今度のものは火力も殺傷力も高い物だ。
ひらりと誠一が窓から飛び出して春香の待つバイクのそばへと駆ける最中に爆発が起こった。爆風を背に受けつつ、春香のバイクの後ろに飛び乗った。乗ったのを確認して春香はバイクを走らせた。
ほっと息をつこうとした時、ゾクリと首筋をなでる嫌な感触を覚えた。長年の勘というのか嫌な予感がした。勢いよく後ろを振り返った。
キラリとビルの3階の窓から光るものを見つけた。
「わぁっ!?」
誠一はサッと青ざめて、春香の頭をとっさにぐいっと下げ、右に持った銃を構えてそちらに発砲した。もっとも距離がありすぎて届くとは思ってもいなかったが、反射的にそうしてしまった。
そこに見えたのはライフルの銃口だった。
誠一が発砲すると同時に誠一の右肩から血飛沫があがった。
「セイっ!」
春香の悲壮な声があがる。思わずブレーキに力が入りそうになった。
「走れ!」
誠一は痛みに意識を持っていかれないように必死に叫んだ。春香はそのまま加速して建物の間を縫い区間貿易センタービルから遠ざかって行った。
思い出した出来事に、同時にため息をついた。そして二人は顔を見合わせるように苦笑した。
誠一達は確かに一般人に比べて秀でた力を持っていた。それは0区という特殊環境において生きるために授かり伸びた『人の生に対する本能』だ。0区においてはそれほど珍しいものではないし、莉玖達のような特殊能力や経験には及ばない。
あのような状況で生きて帰ってこられたことに心底ホッとしていた。
「別に庇ってもらわなくても、あの状況じゃ私は弾にあたっても死ななかったわよ」
面白くないと春香は思った。いつも傷つくのは誠一ばかりだ。昔から厄介事を引き起こす張本人である春香は守られてばかりいた。
たまには頼ってくれてもいいのに。
「無理だな」
今度は誠一の方がきっぱりと言った。煙草を取り出してくわえ、火を探す。
「約束だから?」
春香は口にくわえた煙草を取り上げて睨みつけた。
「おい…」
「煙草は体に悪いのよ。それより質問に答えて」
「そうだよ。俺の義務だからな」
なんの気無くそう言う誠一の顔を見て息をつく。春香は起き上がっていた彼の体をぐっと押しやってまた寝かせた。
「寝ときなさい。師匠(せんせい)呼んでるからそれまでは回復に専念しておいて。見張りは任せなさい」
「お前もあんまり寝てないだろ」
「熱持ってるような人に任せれません」
再び寝転がると、熱のせいか目が回って上手く起き上がれなくなってしまった。そのまま誠一は眠りの地へ降りて行った。
熱に浮かされ、誠一の記憶と思考が入り混じる。
約束したんだ…。最初で最後の約束を交わした。そうでもしないときっと俺は今を生きてはいなかった。人を信じることもせず、ただ力に溺れて0区を生きる屍となっていただろう。
「また喧嘩しおってからに…まったく」
啓介はぶすっとした誠一の顔を見てため息交じりに手当てをする。
「あんたも懲りねぇな…俺がどこで野垂れ死んでも関係ないって言うのに」
誠一が初めて啓介に助けられてからもう三年が過ぎていた。あれ以来、なんだかんだと言って啓介は誠一の世話を焼くようになっていた。
「誠、俺はなぁ、お前に力の使い方を間違えて欲しくないんだ」
「間違って使ってるとは思ってねぇ。銃って言うのは人殺すための道具じゃないか」
0区で生き残るためには自分の邪魔になる人間は排除していかなくてはいけない。また、我が身を守ろうとすれば他者は信じず、容赦をしてはいけない。
それは孤児として幼いころから身につけてきた誠一の経験による知識だった。
「そうだな。この地では生き残ろうと思えば生半可な考えじゃ無理だ。俺みたいなのはものの役にも立たねぇことぐれぇわかっている」
0区がどういうところで、そこに生きる警察官が名ばかりだということは啓介にも分かっている。多くの同僚がその現実に打ちひしがれてこの地を去っていっても啓介はここにいた。わかっていてここにいるのだ。
啓介には恥じたくない心の在り方があった。
「要は心の問題だ。銃を使うにしてもただぶっぱなせばいいってもんではない」
「またいつもの話かよ」
誠一はうんざりするようにそっぽを向く。
「『力は必要な時のみに使え。それは自分の命、大切な者の命を守る時だ』って言いたいんだろ」
もう耳にたこができるほど聞かされていた。だが、誠一の中にやりきれない思いがある。
守りたいものなどない、という気持ちだ。
『独り』の人間に何があるというのだ。これだと思えるものを見つけられる人間ばかりではない。結局は持つ者の持たざる者への押し付けなのだ。
「お前はまだまだ子供だ。だからこそ諦めないで欲しい。今はいなくともいずれ現れるかもしれない大切な人の存在を、な…」
柔らかな笑みを浮かべて、誠一の腕に包帯を巻き終える。
「0区でもまっとうに生きてるやつはそうしてる。ただ、俺はまっとうな道には乗れない運命だったんだよ。諦めるしかないだろうが」
悪態をつく誠一に啓介は盛大なげんこつを一発くれた。
「ってぇな!」
「言ったそばから諦めるな!そんなことじゃ、生きてるとは言えねぇな!」
啓介の言う「生きている」という意味が誠一にはよくわからなかった。
実際、ここに誠一はいて心臓は動いていた。それは生きているということなのではないのだろうか。
しばらく誠一は思案気な顔で黙りこくったままだった。
そんな姿を見て啓介は苦笑気味に誠一の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫でた。
「よし、お前に『枷』を与えてやるよ」
「かせ?」
「今日からお前は俺の息子だ」
面白そうに顔をほころばせる啓介に対して、誠一はあっけにとられて口を開いたままになっていた。
「はっ…はは…何言ってるんだ」
乾いた笑いしか出てこなかった。信じられなかった。目の前にいる男の考えが読めなかった。
「そして、お前は兄としてお前の妹となる春香を守らなきゃならん。俺もいつまでも生きて守ってやれん。俺がもし死んだらお前が死んでもあいつを守れ」
「なに勝手なこと言ってんだ!なんで俺が!」
誠一は啓介につかみかかって、ギッと睨みつけた。
真摯にしっかりと誠一の目を見たまま、啓介は厳かな声を発した。
「約束だ」
啓介の凄みに押されて、誠一はそのまま引きさがらざるを得なかった。
初めのうちは誠一もそんな約束のことなんてどうだってよかった。啓介がそう簡単に死ぬとも思っていなかった。
誠一は息子として扱う啓介にはずいぶん困ったものだった。
春香の親父さんだから「親父さん」って呼びだしたのはいつぐらいだったか。気恥しくて、お父さんとか親父なんて言えなかった。誠一にしてみれば親父さんに慣れるのも一苦労だったのだから。
約束を交わした日の事も鮮明だ。だがそれ以上に鮮明な記憶があった。
視界が回転する。そして次に耳に響いたのは銃声だった。聞きなれたはずのその音が、とても痛くて怖かった。
目にしたのは、春香を庇って血まみれになった啓介の姿だった。
あぁ、あの日だ。
誠一が初めて感じた痛みと、胸にぽっかり空いてしまった穴の感触が鮮明に思い出される。
何人もの死を見てきた。実際に自分が殺した人間もいた。でも、なにも感じていなかった。誠一には当たり前すぎて気がつかなかった。
そう、人が生きていずれ死ぬことなんてわかりきったことで、人の生に対して何の感情も抱いていなかった。
失って初めて気づくことがどうしてこれほど多いのだろうか……。
あぁ、泣いている。あの日の春香が泣いている。泣きながら猛スピードで誠一の目の前を走りすぎていく。
なぁ、泣くなよ…。なぁ、待てよ。
誠一は駆けて行く春香を追った。
無茶はするな。強くないのは知っている。だから、そんな走っていくな。俺のそばから離れるな。
残された、最後の俺の心の支え。与えられた妹。守るべき対象。それが…それが俺の……。
空に手を伸ばし、春香の腕をつかんだと思った。しかし、視界から春香の姿が消える。一気に血の気が引く思いがした。眼前に広がるのは闇だけだ。
「行くな!!」
誠一は、叫びながら目を覚ました。ひどく汗をかいて体が冷えきっていた。荒い呼吸を整えながら、自分の右手を見ると、誰かの腕を強く握っていた。
「行って欲しくないのは誰だ?」
誠一の掴んでいた腕の人物は含みのある笑みを向けて彼に問う。
「か、えでさん?」
「私に行って欲しくなかったのか?」
くすくすと笑いを隠しもせずに彼女は誠一の手を自分の腕から引きはなした。
「ちっ、違います!それは…」
「悪いね。隣にいたのが春香じゃなくて」
無邪気に笑う彼女の言葉に、誠一は額を押さえた。
「…どうしてここに楓(かえで)さんがいるんですか?」
熱は抜けたようだったが、誠一の身体はまだぐったりとして重い。億劫そうに彼女に視線だけ向けた。
「どうしてとはずいぶんな物言いだな。可愛い弟子が厄介事に巻き込まれて負傷者がいるって言うから、手当と救援に来てあげたんじゃないか」
黒のショートカットにジャケットを羽織ってパンツスタイルのボーイッシュな女性。もういい年なのに独身を貫いているからか実年齢より若いように見える。きれいな顔立ちをしているが釣り目のせいか、少しきつい印象を受ける。
名前を島村楓(しまむらかえで)と言う。彼女は啓介の職場の後輩にして、春香の武術の師匠だった。春香が昔から姉のように慕い、尊敬する師であった。
誠一は彼女の事が苦手だった。彼女は啓介と同じく読めない人間だった。誠一よりも一枚上手の人間でよくからかわれる。
「白鷺に喧嘩売ったって?」
「正確には莉玖と久苑が、ですよ」
「…そう……」
彼女の眼に悲しい光が宿る。しまったと誠一は思った。彼女にとって久苑の名は禁句だった。
「君が冷静さを失ったところを見たのは久しぶりだったな。そんなに怖い夢だった?」
彼女は話題を変えてまた含みある笑みを誠一に向けた。完全にからかっている。誠一はそう感じた。
「……失うことの痛みなど知らなければよかったと思います」
「確かに大切なものを失うことは辛いし、怖いな…」
足を組んで椅子にかけている彼女は少し偉そうに見える。
誠一は彼女の読めない微笑を見たまま続けた。
「でも、その痛みは俺に大切なものができた証だった。俺は、親父さんの約束を支えにしている」
楓は静かに目を伏せて聞いていた。
楓にとって誠一も春香も尊敬する先輩であった佐々山啓介の遺児だ。可愛がってきた弟や妹のようだった。二人の事はよく理解していた。そして、どうか二人は真っ直ぐに生きてほしいと願っていた。
「楓さん」
誠一の呼びかけに薄く目をあけて見る。
「なにかな?」
「親父さんはどうして俺に約束なんて持ちかけたんですかね」
楓はしばらく黙ったままだった。楓が啓介に出会った時と同じくして誠一は啓介と約束を交わしていた。だからその当時のことをよく覚えていた。
年若い当時の楓に哲学っぽく0区での生き方というものを語っていた啓介の姿がありありと浮かぶ。
「死んだ魚の目をした人間は0区では生きていけない。生きていけるのは血の上を歩く覚悟を持つ貪欲な人間だけだ」
このセリフを誠一は聞いたことがあった。それは啓介が誠一に言ったことのある言葉だった。
啓介の考えは簡単なことだった。人は孤独の中では生きていく気力が弱い。生きる活力とは他者がいて初めて生まれるのだ。
生きるために、生かしてくれている他者のために汚れることを恐れてはいけない。自己保身に走ってはいけないと啓介はよく言っていた。
「佐々山さんが言うには、君は当時死んだ魚の目をしていた。それは、自分以外を持っていなかったから」
「俺が生きるために自らとその娘を『生きるための仮の他者』にしたってことですか…」
本当に馬鹿だと思った。
でも、それこそが啓介の最大の策だったのかもしれない。
彼は自身が先に死ぬことを予見していたのではないかと誠一は時々思った。
だから彼自身がいなくなっても、春香には守る盾を。誠一には生きる義務をそれぞれに与えたのではないかと思っていた。
彼にしてみれば上手い方法だったのではないか。
「本当に仮の他者として、とだけ思っているわけ?」
「言ってましたよ。俺に本当の生きる目的ができるまでだって」
呆れた顔をして楓は嘆息した。
この馬鹿は…。どうしてこういうとこだけ頭が回らないのか。
「……50点」
「はぁ?」
なにを言われたのか誠一にはわからなかった。
「君はまだ佐々山さんと交わした約束の意味を半分しかわかっていないってこと」
「それって楓さんは……」
言い募ろうとしたところで楓はおもむろに立ち上がり誠一に背を向けて伸びをする。
「実際にはもう、わかりかけていると思う。ただ、君が上手く切り替えられてないだけかな」
そう、本当に春香は今の誠一にとって『仮の他者』なのかと言うことだ。妹ならばまだまだだと思う。だか、あの「行くな」の思いの先はどこにあるのかゆっくり考えるべきだ。
しかし、こういうところで誠一は不器用だということを楓はよくわかっていた。だが、明確な助言はしない。そこは、楓の意地悪だ。
誠一がさらに何か言おうと口を開きかけたとき、声がかかった。
「師匠(せんせい)!」
春香が部屋の入り口から顔を出した。食事を持っている。
「私は見張りに行くから、二人とも少し食べたら動けるようにしときなさい」
そのまま楓は春香と入れ替わる形で部屋を出て行った。
「何話してたの?」
さっきまで楓が掛けていた椅子に春香が腰を下ろす。
「…難しい話」
春香から食事を受け取った。
「なんか、いつもそう言ってない?」
「そうか?」
用意されたパンは少し硬くて塩の味がした。沈黙の中、二人はただ側にいてパンを食べる。
二人は微妙な関係を保ちながらいつも隣に立っていた。
さて、『約束』はいつの日か『真の生きる目的』となるのだろうか…。
〈fin〉
あとがき
Worksへモドル